こころの染織

ひと針ひと針心を繕います。
第8章・・月あかりの散歩道・・・私とルナと一緒に月に想いを馳せて散歩しませんか~♪

古い記憶・・・

2012-02-08 20:36:29 | memories

ルナです。


2月8日・・・・針供養の日


ママさんが前に勤めていた学校では、
この日になると、針を休めて、おれた針をお豆腐やこんにゃくに刺して、
お疲れ様でした・・・・って、供養したんだって。
もちろん、授業は無くて、神主さんが来てお祓いした後に、
かるた大会が催されていたんだって。


この日が来ると、そんな日のことを思い出すらしいね。







ママさん、今日は、お仕事休むの?


 最近は良く休んでいるから、あまり、針も疲れていないと思うけどね。







針もそうだけど、ママさんの裁ちばさみも、ずいぶん年季が入っているみたいだね。


 そうね・・・だって、その裁ちばさみ、大学に入った年に買ったんだもの。
高いものだなぁ~って思って買ったけど、
こんなに長い年月使うことになるとは思わなかった・・・

そのころ住んでいたお部屋は小さな台所が付いていて、
4畳半に押し入れと洋服ダンスが据え付けられていたかなぁ~
部屋代が12000円の時に、
学校で、一括購入して、この鋏、6千円ほどだった気がする。
もう、30年以上も使っていることになるのかな。
そう考えると、高いものでは無かったのかもしれないね。







ママさんは、諸事情で、1年遅れて入学しているから、
その年の夏には、20歳になっていたらしいよ。
どこかでつまずいてしまったのかな・・・・(笑)


この前、ブログの中でも、成人式の写真のバトンが回っていて、
ママさんも、みんなの素敵な晴れ着姿・・・
とっても楽しみに見せてもらっていたんだよね。


ママさんは、残念ながら、成人式には出席できなくてね・・・
昔は成人式って1月15日だったでしょ。
冬休みが終わって、仙台に戻ってきたのが10日頃で、すぐに期末試験が待っていたから、
再び家に帰る訳にはゆかなくて、
ちょっと寂しい日だったことを覚えているって言っていたよ。





まだ、働いてもいなかったから、
成人としての心構えもなかったような、幼かった自分を思い出すんだって言っていた。
今日は、裁ちばさみを見ながら、
古い話を想いだして、ルナに聞かせてくれたんだよ。


成人式の写真は無いけれど、
これから、卒業のシーズンに向けて、
卒業写真はどうですか~(笑)


ママさん、針供養から、話しがずれちゃったね


  


コメント (20)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あの日から、20回目の12月1日に寄せて・・・

2011-12-01 16:51:07 | memories

ルナです。


きょうから、12月・・・・
今年も、残すところ一ヶ月になったね。
多くのことがあった今年だったけど、今年の総決算、
楽しいことで締めくくりたいから、みんなで笑って過ごそうね。


ところで、今日は、どうやら、ママさんにとって、特別な日・・・・らしいんだよ。
少しだけ、ママさんの話を聞いてくれる?





アメリカン・ブルーです。

夫の今年の誕生日にも少し書きましたが、
今日は、ルナに代わって、もう少し、書かせていただきたい想いがあります。
長くなりそうですが、良かったら、お付き合いくださいませ。





1992年12月1日は小学校に入ったばかりの息子の初めてのマラソン大会の日でした。
あいにくの曇り空・・・・今にも雪でも降りそうな、
そんな空の日だったことを覚えています。

一年生は、校庭を一周走って、学校の外側を更に一周走るコースでした。
当時、あまり運動が好きではなかった息子でしたが、その日は、良く頑張りました。
なぜなら、夫が、息子の傍を掛け声をかけながら、一緒に走ったからです。


もしかしたら、これが息子と一緒に過ごす最初で最後のマラソン大会になるかもしれない・・・
そんな想いがあって、元陸上部のエースだった父親は、
回りの目も気にせずに、しっかりと、息子へエールを送りながら完走したのでした。


順位は、真ん中から少し遅れる辺りでしたが、私にはとても良く頑張ったと思える走りでした。
彼にとっても、今日、入院する父親を見送る応援歌のつもりだったんのかもしれません。


 


マラソン大会を見届けて、私達夫婦は、そこから、仙台市内の病院へ・・・・
36歳・・・その日が夫の闘病生活の始まりの日となりました。


9時までに手続きをしなければならなかったのに、マラソン大会を見届けてから行ったので、
すでに10時を回っていたことへ、看護婦さんからお叱りをもらいつつ、
8階内科病棟へ案内されました。
パジャマに着替えると、心電図を撮るからと、
看護婦さんが迎えに来て、夫は病室を出て行きました。


入れ替わるように、別な看護婦さんがやって来て、私を手招きするのです。
呼ばれるままに着いて行くと、そこには、主治医の先生と婦長さんが待っていました。
この時の主治医の先生が、あの、石巻で被災されたE先生なのです。


私はここで、初めて夫の病気の説明を受けることになりました。
現在は、病名は本人にきちんと告知して、そこから治療方針を決めるのでしょうけれど、
当時は、まずは家族への告知・・・そして、そこからどうするかという選択肢が一般的だったのです。
そこには、私が、それまで聞いたことが無かった病名があって、
それが何を意味しているのかも全く解らない、未知の世界への入口でした。

夫は、血液性のがんでした。
先生は、病名を伏せようか?と言いましたが、その時すでに、夫は、書店で医学書を読みあさり、
しっかり自分で病名を決めての入院だったので、
「隠し通せないので、はっきり伝えて、そこから頑張りたい」
私はそう話しました。
それでも、先生は、「悪性」という言葉は、今は外しておこうか・・・・
そう言って、私もそれにうなずきました。


決してここでは泣いてはいけない・・・・しっかりしなくてはいけない・・・
本当の悲しみや、驚きや、心が壊れそうな時は、人は涙が出ないものだと思いました。


最後に、私は、生存の確率を先生に聞きました。
少しの沈黙の後に、60%・・・と先生はおっしゃいました。
きっと、本当は5分5分、と言いたかったと思います。
まずは、2年を目標に頑張ろう!!
2年頑張れたら、5年、頑張れる・・・・そう信じて。。。


先生とそう話して、立ちあがった私を、
ずっとそこで付き添っていてくれた婦長さんが、ぎゅ~っと抱きしめてくれました。
その時、ようやく、私の目から、とめどなく涙が流れて止まりませんでした。
「私達は、患者さんの家族の心も看護しますよ。一緒に頑張りましょう!!」
そう言ってくださった婦長さんの優しさがこらえていた私の心の蓋を開けてくれたのかもしれません。


 



外は、もう、細かな雪が舞い始め、12月の寒さが身も心も震えさせるようでした。
泣いた顔のまま、病室へは戻れない・・・・
30分ほど、病院内をウロウロしてから病室へ戻ると、夫はもうベッドに横になって待っていました。


「先生はなんて言っていた?どれくらいの生存率だと・・・・」
こわばった顔で私にそう尋ねた夫に、どう答えようか・・・・一瞬の判断で、
「70%だそうよ!!大丈夫。必ず私が助ける!!」

夫に少し、嘘をつきました。
五分五分がいつしか7割まで上昇したことで、夫も、いくらか穏やかになってくれました。
「お前は運が悪かったとあきらめてくれ。
でも、息子は、そうはゆかない。。。
せめて、中学生か高校生なら、あきらめもつくが・・・・」


それから、私は、病院から歩いて20分ほどの電気屋まで夫に頼まれて、
小さな液晶TVを買いに、病院を出ました。
広瀬川にかかる大きな橋を渡って行くのですが、橋のたもとから見た景色が、
全くの彩りを失った、無彩色の広がりだったことは、今でも忘れることが出来ません。
生きてきた中で、一番辛いと思った瞬間でした。
まるで、私達の前途を見るようだったからです。


 



その日から、8ヶ月・・・5ヶ月・・・4ヶ月・・・1ヶ月・・・・
4回の入院と、数えきれないほどの外来治療。
症例少ない最新治療や治験にも参加し、
決してあきらめない夫の闘病生活は、ひたすら息子への父としてのすべてでした。


時は、そうして、いくつかの波を乗り越えて、
きょう、私達は、その日からなんと20回目の12月1日を迎えることが出来ました。
翌春に「最後の花見」をしようと、船岡へ一目千本桜を見に出かけてから、
来春には、20回目の花見を予定しております。
今年も、震災や原発の不安の中も、福島の花見山で休むことなく「最後の花見」を決行した私達です。


夫の体は、おそらく、私が想像する以上に壊れていると思います。
でも、その精神力とゆるがなかった息子への責任感と、
「決してお義母さんより先に逝かないで・・・」
私の願い通り、頑張り通した夫は、今年1月、母を見送りました。


毎年、この日が来ると、あの荒涼とした景色と壊れそうだった想いが蘇るけれど、
もう、そこから解放されて、
20回目の12月1日を、笑って過ごしている事として、
今できること、今だからやっておきたいことに気持ちを置き替えて、
明日から、数える事のない未来へ繋げて行きたいと思います。


私の心の整理にお付き合い頂いて、ありがとうございました。
息子にも、あの日のことを話した事がありませんでした。
こういう形でも、ここへ気持ちを書き込んで、
長い年月の苦しかった記憶をそろそろ閉じようかと思っています。
もう、笑った記憶の方が絶対多くなったから。


 



ママさ~ん  そんな遠い記憶がずっとママさんの中にあったんだね。
でも、2年頑張ったら5年過ごせるんだったら、
20年頑張ったら50年過ごせるんじゃないの?  


 そうだね~


パパさんの病気の根源、ガン細胞さんも、もう、20年もパパさんと一緒に暮らして、
成人するくらいになったんだから、今まで見たいにやんちゃなことせずに、
落ち着いて、人に迷惑をかけず、大人としての慎みある行動を期待したいよね。


パパさんは、もう、疲れた~
もう充分生きたし、今が一番幸せだから、これで良い・・・・
そんなこと言っているけど、ルナは、まだまだ、パパさんに遊んでもらいたいし、
いろんな所へ行きたいなぁ~


パパさんは、400mの中距離ランナーだったらしいけれど、
それって、どこで全力疾走するか、考えながら走るのかもしれないね。
お兄ちゃんのマラソン大会の日から始まったパパさんの大きな大きなマラソン大会は、
定年は延長されるし、新薬は開発されるし、
二代目ルナの真打登場でますます距離が伸びそうだね。
パパさん、毎日お疲れ様・・・・
今日から、少しゆっくり仕切り直し、よろしくね~


 



コメント (38)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4度目の夏・・・・・

2011-07-13 18:47:57 | memories

アメリカン・ブルーです。


昨日は、7月としては異例の速さで開けた梅雨を忘れてしまうほどの青い空と、
東から流れる海風が、その気温を打ち消すほどにさわやかにも思える・・・そんな日でした。



本当なら、毎年、7月12日は、静かに過ごす・・・そう決めていたのですが、
ようやく予約を取れた電気工事日に重なって、
それを回避することも出来ず、受け入れることにしました。







我が家の先代犬、コロンが旅立って、4度目の夏になりました。
7月12日・・・・・たった一人でコロンを天国へ見送った瞬間は今も忘れられません。
性格もよく、誰からも、美人ね~と言われた素晴らしい娘でした。







昨日は、毎年のように、この日を忘れず、お花を手向けに来てくださるSさんが、
午後からの時間を私と過ごしてくれました。
Sさんのところにも、コロンと同じ時期に飼った大型犬・アイリッシュセッターがおります。
よく、一緒に居ると、親子なの?と言われるほど、良色合いも姿も似ていましたが、
なにしろ大きさがまったく違います。
彼は、いま、14歳になり、あの震災の日も我が家の車で一緒に逃げ、健在です。


いま、ルナと共に過ごしながら、コロンはいつもルナのお手本であるとともに、
コロンにはしてやれなかったこと、
こうすれば良かったと思うことを、ルナにしてあげている気がします。


子育てもそうだったのだろうか・・・・・
息子を一人しか育てなかった私は、いつも、この一人の反省は生かせない・・・
そう思って過ごして来ました。
だから、後悔なく・・・常にそう思って来ましたが、
そこはなかなかそうはゆかぬが想いというものです。


コロンがいたから、ルナが居る・・・・・
ルナがいるから癒されて、楽しく暮らせる。
最近は、夫とそんな会話をしています。
きっと、天国で、私達を応援してくれていると思います。







昨日は、我が家の電気工事で、部屋中を開放しなければならなかったので、
ルナは、その日を選んで、カットの予約をしていました。







途中、何回か電気が遮断されたので、エアコンはもちろん、扇風機も使えませんし、
ミシンも使えないしので、仕事も出来ず・・・
パソコンもネットが繋がらないので、アウト。


そんな暇を持て余していた所へ、午前中は、マーブルママさんが那須のお土産を持って来てくれました。


なんだと思います?




↑クリック



笑ってくれましたか~  ルナに叱られそう・・・・(やだな・・ママさん


他にも、初めてでしたが、「美人ねぎ」と言うそうですが、
新聞紙を広げて見たら、あら~~~、本当に美人~







すらりとしていて色白で・・・・・羨ましいほどの美人でした。
「これを食べると美人になるそうよ・・・」
なるほど・・・・・もっと早く知りたかったわっ
マーブルママさんは、ひそかに食べていたのね。。。







そして、私の好きな焼き菓子です。







この檸檬(れも)は福島県郡山市に本店のある柏屋のお菓子で、
ここのお菓子は、どれも美味しいんです。
きっと、好きそうだって・・・バレテマシタよね~
たくさん、ありがとうございました。






ルナです。


ママさん、よかったね。
昨日は、コロンお姉ちゃんの日だったから、一人で大丈夫かなって心配だったけど、
マーブルママさんも、Sさんも来たくれて、
ママさんが寂しくなかったことが一番だったね。





やれやれ、ルナも、毛皮をぬいで来たけれど、
昨日は、たくさんの方々に、新生ルナを見てもらって、嬉しかったよ。
今日は、とっても気持ち良く、お昼寝してました~







また、明日から、ルナで登場するね。
よろしく~
コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ママさん、宝物発見に涙。。。

2011-04-27 19:14:27 | memories

ルナです。


今日は、たぶん、あの日以来・・・一番穏やかな一日になった気がする。。。
余震もほとんど感じなかったし、気温も20度近くまで上がったよ。
ママさんは、今日はお客様が多くて、
とっても忙しそうだったけどね。


今日は、お買い物へ行く時間はなさそうだから、
まだやっていないのかなぁ~って、イオンネットスーパーへ行ってみたよ。

わぁ~~~~~

ママさん喜んでたよ。
先週はまだダメだったけど、遂に、ネットスーパーも復旧していた。
ただし、当日配達分の注文はAM9:00まで。。。。
ママさん、急いで~~~







そんなこんなで、なんとか・・・・・

午前中は、バタバタして、お昼を食べたのも1時半だったね。。。
それから、少し休んで、
2時過ぎから、今日の本題のお片づけが始まったよ。



ルナも、ママさんと一緒にニ階のお部屋でちょっと
ママさんは、倒れたタンスの上に載せていたものを整理し始めたんだけどね・・・
そこで、ママさんは、何やら、片づけの手がすっかり止まってしまったんだよ。


何かを見つけてしまったみたい。







これだよ・・・・なんだと思う?

お兄ちゃんの、小学2年生の宿題の日記帳だよ。
6冊もあったんだよ。



ママさんは、すっかり座り込んでしまって・・・・引き込まれるように、その頃へタイムスリップ。。。



2月6日
きのう、お母さんは、
「あしたはゆっくりねられるよ」といいました。
ところがきょうは、はいひんかいしゅうでした。
お母さんは、早く下へいって、にもつをよういして、ぼくは早くきがえしてもってゆきました。
ほかの家のももってゆきました。
手がしびれました。
金曜日からお父さんが青森へ出ちょうでいないので、
お母さんはたっぷりねようとしていたので、ちょっとざんねんそうでした。

↑このきもち、すご~くよくわかるのよネ。
あと、先生は、だんなさんに「のみ会」といわれると、心の中で、ヤッター!!と思います。
その訳は、ひ・み・つ!!




1月27日
家で、ぼくは、お父さんとかくれんぼをしています。
お父さんが、会社からかえってくるとき、車の音がブォブォとなる音とどうじに
きめているばしょにかくれます。
ルールは、お父さんが、ニかいばしょを見て、ニかいともぼくがみつからなかったら、
おとうさんのまけです。
ぼくがかくれているうちに、お母さんが、ダミーをつくっています。
たとえば、カーテンの下にぼくのスリッパをおいたり、こたつを、ふくらませたりします。
このごろ、ぼくが4れんしょうしています。
ぼくは、お父さんがかえってくるのもいいし、
お父さんもぼくといっしょにあそぶのが楽しそうです。
楽しいですよ。

<しつもん> 文しょうがぜ~んぶ花丸のときはやっぱり大きな花丸がいいよネ。
おもいっきりわらったあと、ジーンときてしまった!








パパさんが、病気になって、8ヶ月の入院生活を終えた後の頃だった。
この間に、実は、ママさんも入院してしまい、
土曜日だけ家に外泊許可を貰っていた45日があったことを思い出し、
ママさんは、その頃を探してみたよ。



6月27日
きょう、夕方のバスでお母さんはまたびょういんへかえってゆきました。
さようならと手をふったら、かなしくなりました。
お母さんの目には、なみだがうっすらと見えました。
ぼくは、なくのをこらえました。

泣きがおを見せずにえらかったね。
泣いたら、お母さんもよけいにしんぱいになるもんね。
夏休みがくるころまで、がんばるとまたみんなでいっしょにいられるようになりますね!!








毎日、毎日、先生が丁寧に、こうして書き添えてくれていたんだね。
2年生が終わるまで、毎日、書き綴った日記に、
「先生は、Mくんの日記のファンでした。。。」
そう言ってくれたことをママさんは思い出したんだって。


大事に取って置きながら、しっかり仕舞い過ぎて、もう、18年も歳月が流れていたね。
大きな地震が無かったら、このまま埋もれていたかもよ。。。
ママさん、宝物発見できて良かったね。
お兄ちゃんが帰って来たら、きっと、ビックリだろうね。


でもサ・・・・・・
ママさん、お片づけ・・・・・遅れてるよ



頑張れママさん!!   明日しかないよ~   ポチ     日記@BlogRanking
コメント (22)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豪雪の米沢で義母とお別れ・・・・

2011-01-28 15:42:14 | memories

アメリカン・ブルーです。

1月24日「渋谷・・・マーニーのお店を訪ねて♪」には、
皆さまから、たくさんのコメントを頂戴しまして、ありがとうございます。


記事を投稿して、3時間ほどが過ぎて、夫の兄から「母の病院から急変の知らせ・・・」
そんな連絡を受け、急いで病院へ駆けつけた兄から、1時間後に、「母、永眠・・・」の知らせが届きました。


義母は、それは安らかな最期だったそうです。
そのことが、夫にも私にも、慰めのひとつになってくれました。


ブログは、その時から、時間が止まったように・・・・
開設時から、一度も更新が止まることが無かったことをご存知の皆さまには、
私の最大級の異変に気づかれておられた事と思います。


皆さまには、大変ご心配をおかけいたしました。
追って、ご訪問にて、
コメント返信の遅れをお詫びさせていただきたいと思っております。
よろしくお願いいたします。







夫は、24日も横浜へ出張で、PM10時の電車へ私が迎えに行き、夕食が終わった直後のことでした。
すぐに駆けつけるにしても、深夜の雪道・・・・
必要なものを準備して、日付が変わった2時過ぎに休み、
翌早朝、6時・・・ルナを、ラブドッグ・サトウさんに預かってもらい、
まっすぐ山形県米沢市へ向かいました。


米沢市は上杉の城下町で、
一昨年のNHK大河ドラマ「天地人」の影響で多くの観光客が訪れたようですが、
東北、有数の豪雪地帯でもあります。


私達が急いで車を飛ばして行った日も、景色はまさに雪国・・・・
除雪によって積み上がった雪を、トラックに積んで処理する作業車が、フル活動しておりました。







義母は、本人の希望で、2005年から介護有料施設に入所しており、
一昨年辺りから、施設の自分の部屋と併設の病院を行ったり来たりの生活になっておりました。

私の2005年からの5年日誌の冒頭、1月8日に、
『義母と共に施設の見学に行き、そこで、入所手続きをして・・・・』
そんな記載を見ることが出来ます。


6年後・・・・・
季節を同じくして、その、終の棲家から、義父と義姉の待つ天国へと静かに旅立ちました。







この、米沢で生まれ、米沢で育ち、「日本一良いところ・・・・・」
そういつも言っていた義母の家は、雪に閉ざされて、夫と私がつけた、一本道の先にありました。

この、真っ白な雪の所は、義母の大切な庭であり、12本の梅の木が宝物で、
「100歳まで生きて、梅干し婆になるんだぁ~」
そんな事を言って、季節の物の収穫を何より楽しんでいたことを思い出します。







享年85歳
私が、嫁いだとき、義母は今の私と同じくらいの年齢
最近、義母の言葉の一つずつが、ようやく理解できるようになった気がしております。


義母の冥福を祈りつつ、
教えてもらった多くの事を思い出しながら、
この雪が消える頃、また、義母の菩提に話しかけに行きたいと思っております。








ルナは、明日から登場するよ。待っててね~  えへっ      ポチ       日記@BlogRanking


コメント (34)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする