
アメリカン・ブルーです。
あの日、あの時・・・
その想いから14年目の3月11日を迎えました。
ブログ開設から1年半ほどが経った頃
あの日の前日に投稿したコメント欄に
その瞬間から私の安否を心配してくれた
多くの記録がそのまま残っています。
思えば、大地震の2日前からその予兆があって
でも、誰もその後に来るかもしれない
未だかつて経験したことがない大地震になるとは
その日には考えていませんでした。
今日は私は内科の受診日・・・
歩いてこの交差点へ来ましたが
今は東北最大級と言われる電気屋さんになっていますが
あの震災直後は数年間、仮設住宅が建ち並んでいた場所です。
その後、仮設住宅が撤去されて
その下にある遺跡の発掘調査が2年ほど行われました。
そして、その終了から現在へ・・・
14年の時間がそこにもあります。
私がこの街へ引っ越して来てから
5月で7年を迎えようとしています。
免震構造の建物に住むようになり
揺れを感じる事が少なくなりました。
当時、まだ痩せてひょろひょろだった公園外周の桜の木
先日、夫と一緒に歩きながら「大きくなったなぁ~」
そんな感想を語り合いました。
この公園の大きな桜の木の下でお花見をするまで
元気なのだろうか?
当初は、そんな話をしていたものでしたが
桜の木の成長は見事なものですね。
震災直後に出来上がった公園の桜も
年月を重ねて憩いの場になって行きます。
1ヶ月ほどで満開になるでしょうか~
蔵王連峰は今日はいつになく優しい姿に見えます。
太平洋もあの津波が信じられないほど
平らで穏やかです。
「満天の星空」から14年・・・
読み返してみるとなぜこの表題で書いたのか?
もっと、心の悲惨を言いたかったのでしょうけれど
それを言ってしまったら崩れそうで
あの日、唯一、救ってくれた「満天の星」に
想いを載せた自分を振り返ります。
午後2時46分・・・今年も黙禱を捧げ
犠牲になられた方々への追悼と
今後の安心、安全を祈ります。
コメントありがとうございます。
毎年の3月11日はあの日を想い出しながら
回復してきた多くの日常を感じています。
我が家は当時の家が半壊認定になり呆然としましたが近親者を亡くしたわけではなかったのでその立場の方々の悲しみを想えば少ない被害だったと思います。
でも、あの日の恐怖はきっとみんなが一緒で、14年経っても忘れられませんね。
復興は進み、生活は戻りましたがあの日、あの時間は止まったままのような気がします。
今日は、こちらへ想いを綴って頂いて嬉しく思います。
共有できるものは沢山あると思いますので、どうぞお声がけください。
よろしくお願い致します( *´艸`)
あの時の地震は本当にすごかった。津波も。
でも人々は めげずに新しい生活を始めてくれています。つらいでしょうが。
外にいるものとしては ブログに何と書いていいかわからず。
心の中に秘めておきます。
あの時 映画「ヒアアフター」の津波の場面を見ていたんですよ。
ショックでした。
igagurikun さんのお宅の周辺も大変だったのですね。
当時の我が家は、電気、都市ガスが止まりましたが
幸いにも水道だけが生きていました。
そのお陰で、家の中には揺れ返しが怖くて居られませんでしたが、
車中で過ごし、トイレだけに家の中に入って行きました。
おしゃる通り、もう二度と経験したくないですね。
神棚やテレビがひっくり返って、水道は止まりトイレも大変でした、
近くの家が潰れていくのを見て怖かったです、
2日間ほど車に泊まりました、もう二度と経験したくないですね、
3.11は何年たっても記憶から消えることがないあの日・・・
今年も多くの方々と共に祈りをささげることが出来ました。
コメントへの返信も頂きありがとうございます<m(__)m>
今後ともよろしくお願い致します。
14年の間に、私も毎年ブロ友さん達とここで当時を語り合いますが
そこで知ることは、あの日、あの時間は本当に皆それぞれ記憶に残る瞬間だったと言うことです。
それほどの衝撃でもありましたが
どんな人に聞いても覚えていないという人が居ないのです。
お母さまは埼玉で大きな衝撃にならずで良かったですね。
私の母は盛岡の自宅で、たまたま来てくれていた訪問看護師さんが、母を毛布でくるんでそこに覆いかぶさって守ってくれたそうです。
電話が通じず、たぶん三日後ぐらいにその話を聞いたような気がします。
それぞれの14年・・・
今は、今後予測されている大地震
少しでも危害を食い止められる手だては無いものかと思うばかりです。
切ない投稿ばかりが続いてコメントしずらい中、ありがとうございます<m(__)m>
あの日、あの時は群馬にいらしたのですか?
それではたぶん揺れは同じぐらいの衝撃でしたね。
4頭の大きなわんこ達と一緒では、不安は大きかったことでしょう。
我が家も、隣接する中学校が避難所になっていましたが犬連れは一階まで・・・とのことで
津波対策にはならないと敷地内の駐車場で夜は車の中でルナと一緒に3日ほど過ごしました。
当時の記事で、みちみちさんが大きな声で叫んでくださったことは今でも私の宝物です。
そして、そこに生きているような感覚ですよね。
あの頃は親戚や友人との交流が全くできなかったので、ブロ友さん達に支えられて前を向けた気がします。
有り難いことですね。
休養中にキャロちゃんと二人で・・・
猫ちゃんたちはあの揺れで押し入れの奥に逃げて出てこなくなったとか聞きましたが
キャロちゃんはずっとせしおさんの傍に居たのかしらね~
TVに映る画面を見ている立場も辛いですよね・・・
あーーーー(';') そんな長い時間だったかと思います。
今後の予想される地震も怖いですが、経験を生かして暮らす以外にないですよね。
やはり、あの日、あの時間はどこに居ても
皆さん、本当に怖い記憶に残っていますね。
揺れの大きさもさることながら、そこに追いかけるようにやって来た津波と原発事故
それが東北の悲しさになりましたが、
14年の年月はずいぶん環境を変えて今に至りました。
我が家はその当時の家を離れ、ある意味の再出発の年月でもありましたね。
こちらへのご来訪ありがとうございました。コメントはしっかりされて反映されておりますのでご安心ください。エキサイトブログは2月にサイト更新してシステムトラブル事象になっていたようです。新画面への投稿も使いにくいという声も聞いており、プロバイダーに代ってお詫び申し上げます。引き続きご愛顧・交流継続のほどよろしくお願い申し上げます。
恐怖の体験を知りました。
これといった被害がなかった私に、コメントは載せられませんでした。
14年前の「満天の星空」、読ませていただきました。
大勢の方の応援や励まし、どんなに力づけられた事でしょうね。
ルナちゃんの存在も大きかったですね。
14年経っても未だに行方不明者や、避難生活を余儀なくされている方が大勢いらっしゃるんですよね。
大地震と大津波、そして更に原発事故、
本当に大変な事でしたね。
宮城在住だった母は、その当時は埼玉の老人ホームに移り住んでいたので、怖い思いをさせずにすみました。
私の住んでいる所は「計画停電」が頻繁にあり、
夜はろうそくやランタンを使い、昔ながらの石油ストーブで暖を取りました。
被災地の方々に比べると、ほんの少しの我慢でしたが、少しは不自由な思いを共有できたと思います。
遅くなりましたが、コメントさせていただきましたm(__)m
忘れられるはずもない事ですが…
当時私は群馬県にいて、ライフラインが止まり一切の情報が分からず
一人で大きなワンコ4頭と孤独で不安な数日を過ごしました。
電気が復旧して目にした光景は衝撃的でした。
アメブルさんはあの中にいらしたのですよね。。。
当時の記事を少し拝読してきました。
そこにはみちみちさんの優しさが溢れていました。
よくぞご無事で…。
被災した方々の復興は命がある限りずっと続くんだと思います。
祈ることしか出来ませんが、この先も続けていきたいです。
家にはキャロと二人で、この世の終わりが来た!寝たまま家がつぶれて死ぬかも?って思ったっけ。
幸い米沢は停電も断水も無く、刻々と入ってくるテレビの情報が・・・
なんか目が離せなくてずっと見ていました。
ずっと見ているのもそれはそれで辛かったっけな(´;ω;`)ウゥゥ
千葉でも被害が大きかったんです。
私は成田に行く途中で地震に会い 山が揺れ水が噴き出して怖かったです。
我が家より成田の方が被害が大きかったような気がしますよ。
停電で真っ暗い中帰宅しました。レオちゃん一人だったのでかわいそうな事しました。
アメブルさんは 復興をまじかに感じて過ごされたのですね~
あの日 星空がきれいだったとみなさんが言っていましたよ。
元気をもらえたと・・・
地震の怖さも味わって…の14年 色々考えますね~
私も車の中で黙祷しましたよ。
日常の大切さ教えてくれたように思います。
感謝しなければ・・
早く皆さんが日常に戻られますように・・
祈ることしかできませんが・・・(*^-^*)
そうでしたか~
夫が津波が来るからここから離れると言ってお隣の家族を車に乗せて
私はルナと自分の車で避難したのですが、車にはラジオしかなく・・・荒浜に・・・って何を言っているのか?
本当に津波が来ていることすら理解できませんでした。
中田のヤマザワの駐車場まで行って待機したら千葉の息子から「お母さん、今どこに居るの?」
電話が繋がって、TVで津波の映像が!!って初めて知りました。
いくらTVで避難を呼びかけてもヘリが飛んでも、当事者には聞こえない情報はあるのだと思いました。
怖かったですね、ひたすら怖かったあの日でした。
みんなそれぞれの3.11の記憶が14年経っても消えませんよね。
あの日は、日本全国、どこも揺れたのだと思いますが
終わるかと思うとまた揺れが来て・・・
3回目には、私も諦めてルナを抱いて座り込んでしまいました。
この世の終わりかと思いました。
sumireさんもそうでしたか~
寝たきりのご両親をかかえてでは、本当に逃げることも、外へ出る事すら出来なかったでしょうね。
実際の所、TVも観られなかったので、3日ほど何がどうなっているのか全く分からず
今のようにスマホで情報がを知ることが出来ればと思いますね。
海岸線沿いは、居住環境が無くなり大きな施設や新しい道路になり
すっかり変わってしまいましたが、残された松が残るエリアは14年、未だにあの日のままです。
3.11の日。
一人一人の中に色んな想いがありますね。
そしてあの日、車で待機している時に車載テレビで見た閖上の津波の映像が忘れられません。
具合が悪くなりました。
空気のにおいも、空の色も違っていました。
漠然と自分は死ぬんじゃないか…と会社の事務所で思いました。
怖かったです。
今年も手を合わせて黙祷しました。
葉っぱ
14年も経ったような気がせず・・・
ついこの前の事のように色々想い出します。
でも、考えてみると、14年の間に東根、秋田でも暮らし、仙台に戻り、引っ越して・・・
時間の経過はそれなりにいっぱいでしたね。
亘理町荒浜へ追悼式に参加されたのですか~
あの時間に私も黙とうしましたが
何年経ってもあの日の映像はダメですね。。。
公園の桜は本当に大きくなりました。
千葉でも旭市で13名、山武市で1名
津波で亡くなっています
津波以外でも10名
私の家も「あ~これはもう絶対倒壊するワ
寝たきりの両親をかかえていたので避難もできないし
ジジババと心中するしかないな~と、怖かったな~^^;
アメブルさんのほうはもっともっと恐ろしいことでしたね
そしてその後も復興という行方の長い長い道のりを
身近に感じてこられたんですものねぇ…
街の再生が進み景色は明るく変わっても
14年の重みを感じずにはいられませんねぇ
今年も『今日』にがきましたね。
もう14年。。
桜の木もこんなに育つものなんですね!
街並みの復興は進んだけどこころの復興は?
って、テレビのインタビューに答えていた方がいました。。
そんな今日、亘理町荒浜へ追悼式に参加をしに行ってきました。
黙祷して、お焼香をして。
本当は叔父を亡くした女川町へ行きたかったのですが。。
いやあ、ブルーさんの今日のブログを拝見していろいろ思い出しました。
そうでしたね、復興住宅があったんでした。
14年、こんなに街は変化したんですね。