文科省から、小学校6年と中学校3年を対象にした「全国学力調査」の結果が公表されました。
国語、算数・数学、理科(3年ぶりに実施)について調査した結果です。
民主党政権時代に、全国一斉ではなく抽出校調査という形式に変わったものの、自民党政権になり
以前と同様すべての小中学校を対象とした調査にもどったという経緯があります。
学力の定着の傾向を知ることと その結果から児童や生徒の実態に応じた指導法改善に努めるという目的があったのだと思い
ますが、数値だけが独り歩きして 平均点をあげることが目的となっているような印象があります。
そもそも学力とは何でしょうか。ペーパーテストの点数で推し量れるものなのでしょうか。
また、テスト自体が、どれだけ学力を客観的にみることのできる設問になっていると言えるのでしょうか。
目に見えるものだけを学力と見なすならば、確かに点数はその尺度となることでしょう。
しかし、子どもの持っているさまざまな可能性や能力を推し量る 一つの尺度となるものの その子のトータルとして持って
いる可能性や能力、人間性のすべてを判断するものではないはずです。
ところが、その結果が公表されると、その数値で学校、都道府県が評価され、全国平均に満たない学校や都道府県は教育力の
弱い学校や都道府県として見られるようになり、学校間や都道府県間の格差が強調されてしまいます。
それがさらに競争原理となって、学力向上に重点を置いた指導をあおる結果を招いてしまいます。
いかにして点数をあげるか、そのことだけが目標となると、個々の子どもの豊かな学びをつくる方向から、テスト対策のための
学びを優先させる方向に転じていき、自由な教育からきゅうくつで味気ない教育が展開するような気がしてなりません。
一人ひとりの子どもの可能性や能力、個性や人間性を見つめながら、その子に合った指導や関わり方を推し進めていくゆとりが
失われ、教育現場は外から求められる課題に性急に応えていかなければならなくなっていきます。
どの子にも確かな学力を身につけさせたい、お互いに認め合い助け合い信頼し合う学級や学校をつくりたい、
それは どの教師にも共通する願いでもあると思います。
その願いを実現できるようにサポートし、よいよい教育環境つくるのが、教育行政の役割であると考えます。
学校間や地域間に いたずらな競争意識や格差意識をつくってしまう 学力テストなどは不要です。
たくさんの国費をかけ、学校間の競争をあおるより、ペーパーテストの学力を見るのでしたら抽出校だけの取り組みで十分なの
ではないかと考えます。
学校は、さまざまな課題を与えられ、それに応えることが求められがちです。
学力テストの結果が悪ければ学力向上が課題となり、いじめの問題が起こればいじめ対策が求められます。そして、その成果が
性急に目に見える結果になることが求められます。
その結果、点数をあげることや子ども相互のふれあいの中で生じるトラブル対策に重点が置かれ、地道に学力の向上を図り、ゆ
ったりと子どもの成長を見守ることが、軽視されがちになってしまいます。
一人ひとりの子どものさまざまな成長や変化に目を向け、教師がゆったりと子どもたちに向き合うゆとりが、真の学力の向上と
いじめのない学校づくりを進める何よりのよりどころとなるのではないでしょうか。
外からのさまざまな要求や課題に応えるために、学校の多忙化は解消されない状況にあります。
むしろ 私が現役だった頃より 多忙化は進んでいるのかもしれません。
教師一人ひとりが子どもたちとゆったりと向き合い、一人ひとりの人間的成長(心身両面や学力の面でも)を支え、子どもたちの
心によりそうことのできる 本来の教育現場を取り戻すことこそ 今は必要なのではないかと痛感します。
たかが 学力テスト。そこに現れた点数に一喜一憂することなく、子どもの側に立った教育の展開を求めたいものです。
国語、算数・数学、理科(3年ぶりに実施)について調査した結果です。
民主党政権時代に、全国一斉ではなく抽出校調査という形式に変わったものの、自民党政権になり
以前と同様すべての小中学校を対象とした調査にもどったという経緯があります。
学力の定着の傾向を知ることと その結果から児童や生徒の実態に応じた指導法改善に努めるという目的があったのだと思い
ますが、数値だけが独り歩きして 平均点をあげることが目的となっているような印象があります。
そもそも学力とは何でしょうか。ペーパーテストの点数で推し量れるものなのでしょうか。
また、テスト自体が、どれだけ学力を客観的にみることのできる設問になっていると言えるのでしょうか。
目に見えるものだけを学力と見なすならば、確かに点数はその尺度となることでしょう。
しかし、子どもの持っているさまざまな可能性や能力を推し量る 一つの尺度となるものの その子のトータルとして持って
いる可能性や能力、人間性のすべてを判断するものではないはずです。
ところが、その結果が公表されると、その数値で学校、都道府県が評価され、全国平均に満たない学校や都道府県は教育力の
弱い学校や都道府県として見られるようになり、学校間や都道府県間の格差が強調されてしまいます。
それがさらに競争原理となって、学力向上に重点を置いた指導をあおる結果を招いてしまいます。
いかにして点数をあげるか、そのことだけが目標となると、個々の子どもの豊かな学びをつくる方向から、テスト対策のための
学びを優先させる方向に転じていき、自由な教育からきゅうくつで味気ない教育が展開するような気がしてなりません。
一人ひとりの子どもの可能性や能力、個性や人間性を見つめながら、その子に合った指導や関わり方を推し進めていくゆとりが
失われ、教育現場は外から求められる課題に性急に応えていかなければならなくなっていきます。
どの子にも確かな学力を身につけさせたい、お互いに認め合い助け合い信頼し合う学級や学校をつくりたい、
それは どの教師にも共通する願いでもあると思います。
その願いを実現できるようにサポートし、よいよい教育環境つくるのが、教育行政の役割であると考えます。
学校間や地域間に いたずらな競争意識や格差意識をつくってしまう 学力テストなどは不要です。
たくさんの国費をかけ、学校間の競争をあおるより、ペーパーテストの学力を見るのでしたら抽出校だけの取り組みで十分なの
ではないかと考えます。
学校は、さまざまな課題を与えられ、それに応えることが求められがちです。
学力テストの結果が悪ければ学力向上が課題となり、いじめの問題が起こればいじめ対策が求められます。そして、その成果が
性急に目に見える結果になることが求められます。
その結果、点数をあげることや子ども相互のふれあいの中で生じるトラブル対策に重点が置かれ、地道に学力の向上を図り、ゆ
ったりと子どもの成長を見守ることが、軽視されがちになってしまいます。
一人ひとりの子どものさまざまな成長や変化に目を向け、教師がゆったりと子どもたちに向き合うゆとりが、真の学力の向上と
いじめのない学校づくりを進める何よりのよりどころとなるのではないでしょうか。
外からのさまざまな要求や課題に応えるために、学校の多忙化は解消されない状況にあります。
むしろ 私が現役だった頃より 多忙化は進んでいるのかもしれません。
教師一人ひとりが子どもたちとゆったりと向き合い、一人ひとりの人間的成長(心身両面や学力の面でも)を支え、子どもたちの
心によりそうことのできる 本来の教育現場を取り戻すことこそ 今は必要なのではないかと痛感します。
たかが 学力テスト。そこに現れた点数に一喜一憂することなく、子どもの側に立った教育の展開を求めたいものです。