失われた命は、二度ともどらない。
大切な家族を失った遺族の喪失感を 6年という時の流れは 薄めてくれたのでしょうか。
遺族の心の空白は、亡くなった人しか埋めることのできないものなのですから、これからも
満たされない心の隙間を抱え込んでいくことになるのでしょうか。
テレビで、未だに遺骨も遺品も見つかっていない行方不明者を探し、大切に慕い続ける遺族
を紹介する番組がありました。
行方不明の妻を探すために、潜水夫の資格をとり 毎週末に 海に潜り続ける夫。
高齢でありながらも、妻の遺骨を収集できる日が来ることを夢に見、潜り続けています。
たとえ その日に見つからなくても、次の潜水では 見つかるかもしれない、その期待と
願いが、今を生きる支えとなっているように感じました。
一人娘と生後6カ月の孫を失った母。
一年生に入学する孫を想い、小さなランドセルを祭壇に供えていました。
6年前の孫の姿や表情は覚えていてもその後の6年間は会っていないので、成長した姿が
想像できないと語る言葉に、悲しみの深さを痛感しました。
戻ってこない一人娘が、おなかをすかせているのではないかと気遣い、未だに毎週弁当を
つくり 海に流し続けている母親の姿が 印象的でした。
いつまでたっても子を想い続ける母の愛を感じました。
同時に 消えることのない 親としての心の痛みも感じました。
そうやって待ち続け、慕い・想い続けることが、遺族として 生きる支えであってほしい
と心から願います。
故人との思い出や出来事が 共に生きたという何よりの証であり、確かな事実であることを
忘れないで、明日への一歩を踏み出していってほしい と心から願います。
失われた故郷は、二度ともどらない。
福島の人々の共通した思いかもしれません。
原発事故の教訓は生かされず、原発の再稼働が進められています。
失われたものが どんなに尊く かけがえのない 大切なものであったのか、
3.11だからこそ 改めて かみしめ 忘れてはいけないもののあることを 感じています。
大切な家族を失った遺族の喪失感を 6年という時の流れは 薄めてくれたのでしょうか。
遺族の心の空白は、亡くなった人しか埋めることのできないものなのですから、これからも
満たされない心の隙間を抱え込んでいくことになるのでしょうか。
テレビで、未だに遺骨も遺品も見つかっていない行方不明者を探し、大切に慕い続ける遺族
を紹介する番組がありました。
行方不明の妻を探すために、潜水夫の資格をとり 毎週末に 海に潜り続ける夫。
高齢でありながらも、妻の遺骨を収集できる日が来ることを夢に見、潜り続けています。
たとえ その日に見つからなくても、次の潜水では 見つかるかもしれない、その期待と
願いが、今を生きる支えとなっているように感じました。
一人娘と生後6カ月の孫を失った母。
一年生に入学する孫を想い、小さなランドセルを祭壇に供えていました。
6年前の孫の姿や表情は覚えていてもその後の6年間は会っていないので、成長した姿が
想像できないと語る言葉に、悲しみの深さを痛感しました。
戻ってこない一人娘が、おなかをすかせているのではないかと気遣い、未だに毎週弁当を
つくり 海に流し続けている母親の姿が 印象的でした。
いつまでたっても子を想い続ける母の愛を感じました。
同時に 消えることのない 親としての心の痛みも感じました。
そうやって待ち続け、慕い・想い続けることが、遺族として 生きる支えであってほしい
と心から願います。
故人との思い出や出来事が 共に生きたという何よりの証であり、確かな事実であることを
忘れないで、明日への一歩を踏み出していってほしい と心から願います。
失われた故郷は、二度ともどらない。
福島の人々の共通した思いかもしれません。
原発事故の教訓は生かされず、原発の再稼働が進められています。
失われたものが どんなに尊く かけがえのない 大切なものであったのか、
3.11だからこそ 改めて かみしめ 忘れてはいけないもののあることを 感じています。
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