あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

夏が終わる 仙台育英高校の野球と共に

2015-08-18 22:49:15 | 日記

最終日まで、夏の高校野球の楽しさを味わわせてくれた 仙台育英高校野球部ナインに 心から感謝です。

優勝旗は、東海大相模原高校にたまたま渡ったものの、決勝戦にふさわしい互角の戦いぶりでした。

4点リードされても、3点取って1点差に追い上げ、追加点を取られても同点にまで追い上げた底力。

9回の攻防では相手チームが勝(まさ)ったものの、それまでは互角の戦い振りでした。

エースの佐藤投手は、試合後に「東北の皆さんに申し訳ない」と 大粒の涙をこぼしながら語ったとのこと。

花巻東、秋田商と東北勢を破り、その願いまで背負って勝ち上がってきただけに、それを果たせなかった悔しさ。
復興途上にある東北の人々に勇気をあげたいという思いを 結果に結びつけることができなかった残念な思いが、
込み上げての 言葉だったのだと思います。

結果はどうあれ、決勝戦の戦い振りを見れば、佐藤君の思いはしっかりと東北の皆さんの心に届き、育英選手の
一つ一つのプレーが、勇気を与えてくれたのは確かです。

どうか、胸を張って みんなで勝ち取った準優勝旗を掲げ、仙台に戻ってきてほしいと思います。

それにしても、今年の夏は 気候的にももちろんですが、熱く燃える夏でした。

高校野球の終わりと共に、一つの大きな夏が終わったと 実感します。

夢のような ハラハラドキドキの熱い夏を過ごさせてくれた 育英ナインに心から感謝です。


「♪ 祭りの後の寂しさは ……♪ 」 吉田拓郎の歌が 心に響くような気持ちになります。

高校野球からもらった熱い思いを これからの自分の思いに変え、残り少ないこの夏を乗り越えていきたいものです。

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平和な国で在り続けること

2015-08-16 21:30:51 | 日記
今日は、高校野球のベスト8が出そろい、準決勝に向けての戦いが繰り広げられました。
宮城の代表校の仙台育英は、同じ東北の秋田商業を破り、早稲田実業と対戦することになりました。
ベスト16に勝ち残った 東北勢の花巻東、秋田商業との戦いを制したことは、悲願の優勝旗を東北に
もたらす役割を両校から託されたという意味合いもあるのでしょう。
スポーツマンシップにのっとり、甲子園のグランドいっぱいに全力プレーで戦う姿に、勝敗を超えた
ところにある 純粋でひたむきな思いを感じ、熱い感動を覚えます。
平和であるからこそ、味わえる感動でもあります。
100年の歴史を刻んだ高校野球。
先の戦争で休止の時期もあり、甲子園でのプレーを夢見ながら戦地で亡くなった球児もたくさんおら
れたことでしょう。

戦後70年の節目の時を迎え、改めて戦争のない平和な時が続くことを、世界中から戦火が消えること
を心から願います。

広島・長崎の惨禍を二度と繰り返すことがないよう、すべての核兵器のこの地上からの廃絶を願います。

戦争への道を開く安保法案は不要です。

首相談話が、戦争による加害責任を認め アジアの国々で犠牲になった人々に心から謝罪し、二度と戦争
を起こさないという不戦の誓いを明言する内容であったら、悪化する中国や韓国との関係も好転する契機
となったかもしれません。
少なくとも、歴史に謙虚に向き合うことを明言した以上、その建前が実際の行動と結びつくものとしなけ
れば、言葉だけの談話と受け止められてしまうのではないでしょうか。

15日には安倍内閣の閣僚が靖国神社に参拝し、首相本人も玉ぐし料を捧げたとのこと。
こういった行為を繰り返す限り 戦争犯罪人を擁護する 加害責任を認めない歴史修正主義者としての見
方は変わらないのではないかと思います。

侵略や植民地化という加害責任を認めない限り、被害国の人々の苦痛を汲み取ることはできないでしょう。

私は、そこに永続敗戦論の著者が指摘した 過去の戦争の総括と反省が置き去りにされた歴史観を見るよう
な気がしてなりません。
ドイツは、戦争の加害責任を認め、戦争犯罪人を厳しく追究し、過去の戦争に対する反省とお詫びを行動で
示すことで、被害国からその誠意を認められる国になりました。

果たして日本はどうでしょうか。村山談話に至るまでの戦後の過程で、アジアの被害国に対して反省やお詫
びが行動で示されたことがあったのでしょうか。補償金とは別個に、戦争責任を認めた誠意ある言動が政治
家によってなされたのでしょうか。

謝罪の負担を未来の世代に生きる子どもたちに残していけないのだと考えるなら、戦争による加害責任を認
め、心からの謝罪がすべての被害国に受け入れられる言葉が、談話の中に盛り込まれるべきだったのではな
いでしょうか。
その決意に基づく、これからの行動を語るべきだったのではないでしょうか。

今回の談話は、外向きではなく内向きに考えられた内容でもあったように感じます。

安保法案に対する国民の反発意識を考慮し、日本のこれからの歩みは、戦争のない平和な世界を求めての歩
みであることを強調しているような印象があります。安保法案の先には戦争ではなく平和があるのだという
ことを間接的に主張しているように感じてしまいます。
それは裏を返すならば、法案の先に戦争への道を憂慮する国民の思いを感じているということでもあるのか
もしれません。

先の原発事故では、誰も加害責任は問われず、事故に対する反省も教訓も見えない形で、原発の再稼働が始
まりました。
戦後の出発もある意味で同様だったのではないでしょうか。
戦争責任をあいまいにし、加害責任から目をそむけようとする姿勢に、同じ過ちを繰り返しているような気
がします。それでも、戦後の平和が守られてきたのは、不戦の誓いを基にした平和憲法があったからなのだ
と思います。

まさに 二度と戦争を起こしてはならないという痛切な思いが憲法の前文に込められており、戦争を放棄する
9条の下での平和国家としての戦後の歩みだったのではないかと思います。
戦後の道しるべとなった憲法の理念が、政治家の横暴に歯止めをかける役目を果たしてきたのだと考えます。

戦後70年という節目の時を迎えた年だからこそ、この八月は平和の意味や大切さを深く考え、改めてその尊さ
を実感しながら、揺るぎない平和国家としての歩みを支える国民の一人でありたいと思います。







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折々のことばから

2015-08-12 20:10:54 | 日記
朝日新聞の一面に連載されている 鷲田清一さんの8/12付の「折々のことば」から。

「哲学とは、みずからの始点が更新されてゆく経験である」
                    モーリス・メルロ=ボンティ
解説には、次のように書いてあります。

「世界について考えるとき、これ以上さかのぼれない出発点だと見なしてきたものが、じつは
先行する別の働きによって実現されてあるものであることに気づくこと。
始点だと思っていた場所が、別のある隠れたいとなみの終点であったと知ること。同じこと
は、ひとがみずからの人生を振り返るときにも言える。
20世紀フランスの哲学者による『知覚の現象学』序文から」

解説にあるように、その言葉の『哲学』を人生に置き換えるならば、まさに
「人生とは、みずからの始点が更新されていく経験である」 と言えるのではないかと思います。

これまでの経験が今の自分のすべての土台となり、これからの経験が新たな始点となってリセット
され未来が更新されていく。この世に生きている誰もが、一回きりのすべてが初めての体験となる
人生を生きているのですから。

常に終わりではない始点という今の時間の内に、生のいとなみを続けているのですから。

始点という言葉がいいですね。
常に今が始まりでもあるという意味合いでもあるのですから。
更新されない明日などあり得ない。
仮に 今抱えているものが辛く苦しいものであっても、明日は明日の風が吹いて新たな始点に立つことになるの
ですから。

生きるということは、新たな明日を生きるということであり、日々更新されていく足跡が人生というものなのか
もしれません。

まだ見ぬ明日という時の訪れを そんな思いで迎え、新たな明日を生きていきたいものです。

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高田郁作「蓮花の契り」を読んで

2015-08-10 19:16:04 | 日記
「蓮花の契り」は、前著「出世花」の続編であると同時に完結編でもあります。
主人公のお縁は、「三昧聖(さんまいひじり)」として、亡くなった人々の思いによりそい
心を込めて亡骸を洗い清める湯灌に従事しています。
その姿を見た人々は、亡くなった家族ややがては死を迎える自分のために、三昧聖の湯灌
を望みます。

今回の物語でも、死者の思いや願いを汲み取り、その思いによりそって尽くす お縁の姿
が心を打ちます。

与えられた仕事に全身全霊で取り組む その一途な姿は、「みをつくし料理帖」の澪に通
じるものを感じます。

お縁は死者の心によりそい、澪は料理を味わってくれるお客の心によりそい、それぞれの
道を 周りの人々に支えられながら 自らの手で懸命に切り開いていきます。

その姿から、人が人として生きることの意味や尊さを 普遍的に感じ取ることができます。
それが、高田ワールドの魅力なのだと思います。

今回の物語では、死者に向き合ってきたお縁が 赤ん坊を自らの手で抱きとることで、命の
温もりと重さを感じる場面があります。
愛する人と夫婦になり、母親となって命をはぐくむ生き方もあることに気づく場面でもあり
ます。

しかし、お縁が選んだ道は、愛する人と夫婦になる道ではなく、仏に仕える立場で共に生き
るという道でした。

生涯、三昧聖として 亡くなった人々を天の道に誘う道を選んだのです。

女性としての生き方ではなく、人間としての生き方を選んだのであり、それはまた 愛する
人である 正念の選択した道でもあったのです。

縁や正念のそういった生き方は、悟りとしての昇華された生き方なのかもしれません。

聖人にはなれない俗人にとっては、迷いながらも 男女の幸せを願い、人間としての生き方
も尊重しながら、誠実に生きるという道を進むことが求められているのかもしれません。

いかにこれからを生き いかに自分の夢や願いを果たしていくべきか。

一人の人間としての生き方や在り方を 読みながら 問うことができました。

その答えは、これからの生き方の中で示していくことになるのだと思います。



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長崎に思いをよせて

2015-08-09 09:18:00 | 日記
今日は、長崎への原爆投下から70回目の原爆忌です。

天声人語に、妻と三人の子を亡くした俳人:松尾あつゆきさんの句が掲載されていました。

○あはれ七カ月の命の花びらのやうな骨かな

 子は、中一と四歳、一番下はまだ七カ月の赤ちゃんで、自ら木を組んで三体のなきがらを焼いたそうです。
 先立ったわが子を亡くした親の悲しみ。その思いを抱えながら、木を組み 自らの手で天の国へ送らなければ
 ならない辛さ。子を抱きしめる手で なきがらを焼き、花びらのような骨を見たときの 深い悲しみ。
 わずか七か月余りしか生きられなかったわが子への愛しい思いが、強く深くこみ上げてきたのではないでしょうか。
 尊い子どもたちの命を一瞬に奪ってしまった 核兵器の悲惨さ 戦争のもたらす残酷さ。
 愛する子や肉親を亡くした人々の慟哭が、心に響いてきます。
 
○なにもかもなくした手に四まいの爆死証明

 子を追うように妻も亡くなり、手に残されたものは四人の爆死証明。
 その手でもう二度とわが子や妻を抱くことはできないのです。なにもかも という言葉の内に、失ったものがどんなに
 尊く大切なものであったのか その無念の思いがひしひしと伝わってきます。

○降伏のみことのり、妻をやく火いまぞ熾(さか)りつ

 妻を荼毘に付した日に、玉音放送が流れたそうです。
 戦争が 原爆の投下がなかったら、妻と子どもたちも 松尾さん自身も 幸福な人生を歩むことができたことでしょう。
 亡くなった先にあるはずだった 取り戻すことのできない わが子たちとの人生。
 母としての妻の 無念の思いと怒りを 熾(さか)りつある炎の内に 松尾さんは見ているのでしょうか。

こういった 言葉にならない 悲しみや辛さを抱えながら、松尾さんは戦後の人生を生きてこられたのでしょう。

そこで家族や肉親・親しい人々を失っただけでなく、被爆者の方々は 差別や偏見という中でも生きなければならなかったそうです。 
被爆者であることを理由に、いじめや差別を受けたり、愛する人との結婚を反対された人々。
悲しみと新たな苦しみの中で、生きなければならなかった事実に、言葉もありません。
被爆体験者の方々の中には、そんな理由から悲しく辛い体験をいまだに言葉にできない方もたくさんおられるそうです。

悲しみを抱えた人に 新たに悲しみや苦しみを与えてしまう 人間社会の現実という残酷さ。
誰もが大切にされ、受け入れられ、認められる社会。
さまざまな悲しみを抱えた人々の心が癒され、安心して生きていけるような 温かく 心豊かな人間社会でありたいものです。

悲しみの対極にあるのが幸福。
戦争の対極にあるのが平和。
世界中の誰もが、幸福で 平和な社会の中で生きることのできる 未来であってほしいものです。

そのためにも、悲しみを生み出す 戦争や核兵器(原発も含め)のない 世界であることを 心から願います。 
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