昨日は、言語によって人の思考回路そのものが支配されているのでは? という仮説を述べました。
もともと、この仮説は多くの言語学者が唱えている説ですので、真新しい話ではありませんが、明らかに、英語圏の人間との会議、日本語圏の人間との会議では、結論のスピードや、修正のスピードが異なりますので、日々実感している両者の違いを、感覚的に述べさせて頂きました。(ちなみに「言語によって、思考の土俵そのものが異なる」という考え方は、ハリウッド映画「メッセージ」が分かりやすく映像化しているので、ぜひご覧下さい)
ところで、ゲルマン語系やラテン語系、あるいは中国語に至るまで、まず結論を述べて、理由を後から付け足す語順の言語が世界中に多く広まっているのに対して、日本語やハングルのように、結論を最後に述べる言語が数少ないのはなぜなのでしょうか?
今から話すことも私の仮説ですので、悪しからず。もともとは、語順の異なる言語が世界中に溢れていたとします。しかし、決断⇒実行⇒修正⇒実行⇒見直し⇒実行、としていた民族と、検討⇒検討⇒修正⇒検討⇒実行、としていた民族とが、歴史の流れの中で、要はどちらが勝ち残ったのか、ということだと考えています。すなわち、数百万年の人類の歴史の中で、行動様式が「熟慮タイプ」よりも、「試行錯誤タイプ」の方が勝ち残ったということ。
ただし、島国で海に閉ざされた民族や、半島の先っちょに住んでいた民族は、例外的に、根絶やしにされるような戦乱に巻き込まれることが少なかったため、世界でも珍しい「結論を最後まで決めない言語」が残ったのではないか? そんな風に考えています。
自分は日本語文化を残すべきと考える人間の一人ではありますが、同時に、英語とのバイリンガル化を加速すべきと考える人間でもあります。この考えの背景には、今申し上げた仮説があります。日本人が「熟慮タイプ」から「試行錯誤タイプ」へ変わっていくためには、言語の土俵自体を変える必要があると考えています。