「死生観」というと大げさになりますが、生きること、死ぬことについて、考え方に変化が起きる不思議な瞬間を、何回か経験してきました。
最初は35歳頃。その時の職場は密室のような職場で、5人だけで大きな組織の負託を実現しなければならない世界。従業員組合の専従書記局でした。すぐ上の上司は、課題を並べ立てるが、一切の解決方法を出してくれない人物。一番上の人物は、理想が高すぎて、美しい解決方法を求めすぎるが故に、かえって具体的な解決策がどんどんと遠くなってしまうような人物でした。ベストでなくとも現実的な解決方法を素早く出していくのが自分の信条でしたが、上記2名の上司からは、そんな自分の考え方が認められることはないため、課題だけが積み上がり、答えの出ない打合せを、延々とやらされる毎日でした。
ある時、オルグで地方へ移動する時、乗っていた飛行機が台風の影響で大きく揺れ続きました。周囲の人間は青ざめて、気分を悪くする人が続出する程の揺れ具合でしたが、その時、二度と職場に戻りたくなかった自分は「もう、このまま落ちてくれても良い」と妙に冷静な気持ちになっていました。自暴自棄と言えなくもない心理ですが、実はその瞬間から、多少危ない目に遭っても「怖い」とは感じなくなり、どうせいつかは死ぬのだから、という感覚が芽生えました。そういう感覚が芽生えると、不思議なことに職場に戻ったら、上司二人とも真っ向から闘う覚悟が自然と生まれてきたのです。
また、どうせいつかは死ぬのだから、と割り切る一方で、自分の家族への責任も強く感じるようになりました。嫁の老後の生活保障や、子供の教育資金の確保を考えると、まだ死んではいけないと。また、自分の親が健在なうちは、親より先に死ぬことは最悪の親不孝であり、それまでは死ねないと。
自分の死生観は非常にシンプルで、「どうせいつかは死ぬのだから、今を全力で走り、いつ死んでも後悔しない」「ただし、嫁の生活保障と子供の教育が終わるまでは絶対に死なない」「両親が亡くなるまでは絶対に死なない」。この3つから成り立っています。(続く)