昨日の続きであります。
昨日の当blogの記事を読んでくれた各方面の友人から、「とはいえ、五輪は各競技の世界チャンピオンを決める大会。『公平かつ正確な審判の仕組み』を早急に整えなければならないとの想いが『騒ぎの根源』にある」という意見を頂きました。
確かに、「そうした想いが爆発したことによりネットが荒れたのはそのとおり」だと思います。
ただ、この点でもワタクシには以下のような違和感があります。すなわち、
「4年に1回の一発勝負だけで、本当に実力世界一が決められるのだろうか?」という違和感であります。
例えば、アルペンスキーやノルディックスキーのジャンプや複合競技では、「オリンピックで決まるのはオリンピックチャンピオンであり、実力世界一を決めるのは、年間15~20試合以上開催されるW杯である」という不文律があります。オリンピックはオリンピックで大切な場として認知はされていますが、スキー競技の実力NO.1を決めるのは、あくまでW杯での年間を通じた総合順位。オリンピックチャンピオンは当然ながら尊敬されますが、それよりも「W杯総合チャンピオン」こそが世界一の称号として相応しいと考えられています。
この背景には、4年に1回の一発勝負だけでは「運不運」の要素が大きすぎるとの共通認識があります。
MLBや日本のプロ野球が、年間140試合以上も費やしてようやくチャンピオンチームを決める仕組みであるのも同じ理由です。野球という競技は、一発勝負で優劣を決することが難しい競技であることは皆が思うところ。ちなみに、あのWBCはWBCで意義は認められてはいますが、所詮ほぼ一発勝負の大会ですから、運不運の大会であると考えられています。むしろ、WBCは世界に野球を普及させる目的で実施されている「祭典」ですので、だからこそ各国のスター選手が「野球への恩返しのために、開幕前の1か月間だけボランティア活動として参加」してくれているのです。
オリンピックは、そもそも「平和の祭典」であります。全世界からスポーツ選手や審判や運営委員が集まって、皆でルールを決めて、皆で運営して、世界中の人々が競技を楽しむためのお祭りとして開催されたのが始まり。この時ばかりは、政治や地域紛争のことは横に置いておき、スポーツが持つ「世界を一つにする力」をフルに活用して、他国および他国の国民も尊重する心を取り戻す場として開催されたのであります。
それが何時からか、国家が国家の威信を誇る場に変わってしまい、オリンピックは国民の国家忠誠心を煽る場と化してしまいました。
「オリンピックは平和の祭典」であり、「実力NO.1を決める大会ではない」と世界中であらためて共通認識が持てたら・・
「国家間でメダルの数を競い合う場ではなく」、むしろ、「スポーツ競技の素晴らしさを世界中の子供たちに伝えるための場」だと共通認識が持てたら・・
今回のようなネットで誹謗中傷トラブルが起こることもなくなりますし、五輪の放映権が天文学的な値段で取引されることもなくなり、延いては五輪誘致で金銭スキャンダルが起こることもなくなると思います。