ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

「鉢が多すぎる」

2012-07-01 15:05:09 | 実例体験観察
友人が家に来て、庭を見回し、「鉢が多すぎる」と言った。

ニコリともせず言った。

「小さいのが成長するのが楽しみなんだ・・」なんてつい言ってしまった。

ちょっと言い訳がましい。なんでこんなこと言ったんだろ・・

鉢が多いにはコレコレこういうわけがあるからなので・・

みたいな言い訳をする自分が後で恥かしく感じた。

「鉢が多すぎる」という言葉と、それを発した時に笑顔じゃなかったことがキッカ

ケで、否定されてると私は受け取ったようだ。

鉢が多いということを、「いけない」と彼女が云ってるように聞いた私だった。

実際その時に彼女に否定的な思いはあったのか、なかったか、

それはどっちでもいい。多分あったとは思うけれど、

自分がそう受け取った。それが私の担当する部分である。

ひとのことはどうでもいい。

なんでもぁーっとした気分になったか・・・??

否定と受け取った、それで気分がもぁーっとなったのか??

いや、それだけじゃないような感じ。

もし、彼女がどこかの家の庭を見て、「鉢が多すぎる」と批判的に言ったなら、

せいぜい「そう?そうかな~」とか、

「そういえばそうだね~」とか、

「へぇー、これくらいを多いと思うんだ!?」とか、

返していたかもしれない。

この時感じたもぁーっとした気分にはならなかったんじゃないかと思う。

そりゃそうだよ、自分ちの庭を貶されて・・という声があるかもしれない・・

でもなんで、「そりゃそうなのか」・・?

「全くアンタは馬鹿でろくでなしでどうしようもない人間だ」と聞いても、

それを(自分のこと)だと聞いてなかったら、

そうかぁ、そう思ってるのか~ と、平穏な気持ちで聞ける。

そう思ったよ。

自分というものを客観視するのは結構難しい。

さぁ、今度そういう体験したときに、どんなふうな自分になるか・・楽しみ。

もぁーっとなる確率のほうが多いだろうけど。

どうなるかを見るのはどんなことでも好きだから、まっ、いいか。
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タロー青年

2012-07-01 10:30:44 | テレビを見て
このタロー青年は先生と他の3人とで演奏してるのを聴いた時に、感動してしまう。

このような美しい演奏を、もしかしてそれ以前も彼の耳は聞いたことがあったかもしれない。

けれど、その時はこんなふうに感動しなかったかもしれない。

一年近く彼は先生に指摘された自分の欠点をなくしたいと願って、

暗中模索していたんだろうと思う。

こーじゃないか、あーじゃないか、と来る日も来る日もバイオリンに向かったんじゃないかな。

もしかして放り投げてしまいたいと思った日もあったかもしれない。

でも放り投げなかったのは、美しい演奏をしたい、脱皮したい、ひとに喜んでもらいたい・・

というような強い欲求、情熱があったからだろうと思う。

そんな日々があったからこそ、

その演奏を心で聴ける心境になったのかもしれないと思う。
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BS「カルテットという名の青春」

2012-07-01 10:17:47 | テレビを見て
昨日の夜BSで「カルテットという名の青春」というのを

編み物をしながら、途中からなんとなく見ていた。

印象的だったのが後半の方のシーン・・

4人で演奏してるのを先生に聴いてもらっているときに、

カルテットの4人のうちのタローという名の青年に、

先生が口でいろいろと、楽譜を弾くんじゃない、音楽を弾くんだとか、

表現は忘れたけど、こういうふうに演奏しなさいというようなことを言う。

タロー青年はそれまでも、君の演奏は優等生的だ、もっと自由に弾きなさい、

とかそういうことをずーっと指摘されていたらしい。

タロー青年はそういう言葉を聞いて、もっと自由に・・とはどう演奏することなのか、

優等生じゃなく弾くというのはどういうことなのか、

わからなかった・・ようだ。でも当たり前だと思う。

もっと自由に・・と言われても、何をどうするのか、わからない。

「自由に」というのは動詞につながる副詞だろうけど、

自由に歩けとか、自由に走れとか、自由に仕事しろとか、

自由にしていいとか、自由に生きろ・・とか、

そう指示されても、具体的にどう動くのかは・・・???

そう指示されてそうしたいと強く思っても、

・・・出来ない・・・このタロー青年もそうだった。

自由とは無目的に勝手に、ということじゃないし・・

楽譜通りに弾かないとその曲にならないし・・・

1年くらいタロー青年は悩み苦しんだらしい。


その時、先生は言葉で説明は出来ないと思ったのか、

タロー青年のバイオリンを貸しなさいとか言って、

そのバイオリンで他の3人と一緒に弾き出した。

それをタロー青年はじっと聴いていた。

演奏の終わり頃、タロー青年の目から涙が零れた。

演奏が終わってそれに気付いた先生は驚き、どうした?といって傍に寄った。

タロー青年は感動してしまったよう。

そして、こんなふうなことを言う。

「美しく演奏しようなんて考えないでいいんですね。

この曲は既に美しいのだから。」と。

昨日梅ちゃん先生の町医者先生の言葉について書いたけど、

あれと同じだなぁと思った。

「ただそこに居ればいい」ひとを助けようなんて気負わずに。

「ただその曲を弾けばいい」美しく演奏しようなんて気負わずに。

どちらもその対象とひとつになる・・そういうことなのかと思った。

対象とはその楽曲でもあるし、自分でもあるし、観客でもあるのかと思った。

~しよう・・というのは作為なんだろう。

(作為ってことさらに手を加えること・・広辞苑より)

赤ちゃんがお腹を空かせて泣いた時に、母親はおっぱいを含ませる。

そこに作為はないように思う。

謂わば、心という境地がそう行為させてしまうんだろうと思う。





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