ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

途中だと・・

2012-07-19 20:32:36 | ひとの幸福
見聞きしたその時の現象は流れの一部分だとわかっていたら、

すぐにムッとしたり、批判したりにはならないのかもしれない。

今見ているものはこの地点この時点での在りようだとガッテンしていたら、

そうそう文句は出ないんじゃないか・・・

なんせ途中なんだから。

答案に向かって問題を解いている途中に、

それが間違ってるだの、これが正解だよ、なんて言われてるようなもんだ。

自分でやって、自分で間違いに気が付きたい。

教えてもらうというカンニングをしても自分の実になることはない。

その場しのぎだけになる。

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部分だと・・・

2012-07-19 20:10:32 | ひとの幸福
見聞きしたその時の現象は長い流れの一部分だとわかっていたら、

すぐにムッとしたり、批判したりにはならないのかもしれない。

今見ているものは長いプロセスのこの地点この時点での在りようだとガッテンしていたら、

そうそう文句は出ないんじゃないか・・・

そういう見方が出来る人のことを、

鷹揚だとか寛容だとか懐が深いとか、清濁併せ持つ人だとか、

なんでも否定なく聴いてくれる人だとか・・・言うのかもしれない。

そうそう、長い目で見てやって・・という深い言葉もある。

まぁ、考えてみたら、目の前のパソコンも携帯もテーブルも鉢植えの植物も、

義父も夫もこの家も私も、

何もかもが今この時点、この地点での在りようでしかなく、

朽ちて又再生、再び別物として生まれてくる道の途中にあるものだ。

今ここでそうなっている、そのような在り方で存在してるだけのことなんだなぁ。


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「理論負荷性」

2012-07-19 19:50:39 | 本を読んで
私が肺のレントゲン写真を見ても、

それがどういうことを表わしているのか全くわからないけど、

「レントゲン写真を見てこれが肺がんだとか、結核だとかいうのも、

医師が理論を負荷されているからこそガン組織が見えてしまうわけで、

“本当のところはわからない”」・・・福岡先生の発言にこうあった。

科学哲学で「理論負荷性」という言葉があるらしい。

「せいめいのはなし」にあったのだけど、理論を予め知っているから、

そのものがそう見える、というようなこと。

「理論負荷性」なんて聞くと、なんじゃそれは、って難しそうに思うけど、

日常でもこういうことはよくあるんじゃないかな。

ここのブログにも書いたことあるけど、

バナナが何本か在って、その中に多少色が違うのが混ざっていても、

バナナは黄色だという知識が予めある人は、それがみな黄色に見える。(2/12burogu「色は脳で作られる」)

・・というのも「理論負荷性」があるということなんじゃないかな。

今朝書いた自分の中に(やらされる)があったから、嫌な気分になった、

というのも(やらされる)という「理論負荷性」があったからこそ、

そう反応したということ。

赤ちゃんに何かをやらせようとして言動しても、

赤ちゃんは私みたいな反応はしないだろう。そういう「理論負荷性」がないから。

人間は知っていることしか知らない。

わかっていることしかわからない。

ひとは自分の中にある眼鏡でしかものを見られない。

いくら周りで、そうじゃない、こうだ、なんて教えても、

それがすっと入ることなど本当に少ない。

いろんな「理論負荷性」を持っているからだろう。

それがすっと入ったと見えた時、その人は「理論負荷性」を棚に上げ、

準備が整っていたということなんだろう。

アメリカで「生徒の準備が整った時に教師は現われる」という言葉があるそうだし、

山岸さんの「成長に応じて差し上げます」という言葉も同じことかと思う。

そしてそれでもやはり、

人間は“本当のところはわからない”とわかっているか、いないかで違ってくるのだろうと思う。
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「自然との往復」

2012-07-19 18:33:30 | 本を読んで
「せいめいのはなし」の中で、

「実在と認識が同じように成り立たないといけない気がする」とは養老先生の発言。

この話の中で養老先生はさらっと(そう感じたのは私だけど)

「認識と生理が一致するように見えてこなくちゃいけない」とも云っている。

この言葉は凄い。「見えてこなくちゃいけない」そう、考えて見ることじゃない。

見えて来ること。

養老先生は『生理』という言葉を選択したんだなぁと思った。

これは「体得」というようなニュアンスなのかと私は受け取った。


「自然を見ていると、その双方の往復ですからね、

しょっちゅう『こう考えていい?』とか『これとこれは違うんだよな』とかを自然相手に聞き、

『違うよ』とか『いや、違わない!』と返事してもらったりする(笑)

絶えずそうやって往復する。その往復運動は自分のためです。

『こういうことはやっぱり違うんだな』『こういうことは違わない』

と煮詰めていって自分の認識を変える運動」

「その時はそう思っても、やって行くと変わってゆく。」

・・・これもやはり養老先生の発言。


自然相手に観察し、考えている人の確かな実感という気がする。

彼はこんなふうな認識と生理の一致の多くの歴史を持っていて、

それが今の彼に繋がっているのだなぁと思う。

いろいろ観察し、考えて来て、自分のものの見方は、

仏教の阿含経と同じだと気付いたというのが彼の著書にあったけれど、

なるほどそうだろうと思った。

山岸さんが釈迦と気が合うといったのと同じようなものだろうと思う。


生命である意識が織り成す人間界でも、

その時その時、自然生命である相手に、

『こう受けていい?』『うん、それでいいよ』『違うよ』と返事してもらったりする。

(相手の顔つきや雰囲気や言葉で)絶えずそうやって往復する。

相手との往復運動(交流)は自分の為です。

『こういうことはやっぱり違うんだな』『こういうことは違わない』

と煮詰めていって自分の認識を変える運動。

決して相手の認識を変えるためじゃない。

そして「その時はそう思っても、やっていくと変わってゆく」んだなぁ!・・

生きている限り、終わりがないなぁ。

死んでもそうか・・?!
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笑い

2012-07-19 15:15:12 | 本を読んで
河合隼雄さんの本を読んでいたら、

その中に、アンリ・ベルグソンという哲学者の言で、

笑いというのは客観化。人間は自己客観化が出来るもの。

笑うというのは何かをわかること・・というような文章があった。

そう言えばそうなのかなと思った。

この前の地震や大きな災害を受けた時、ひとは思わずだろうけど、

笑って話すことがある。

テレビやなんかで取材を受けているから、お愛想で笑うわけじゃないと思う。

自分を客観視している感じがそこにはある。

客観視と笑いとどういう関係になっているんだろう???

自分の持っている力ではどうしようも出来ない時に、

ひとは笑うしかないのか・・そんな感じで思っていたこともある。

お手上げ。観念しました。そんな時に笑うということもあるんじゃないか・・・

自己客観化は笑うこと・・?・・自己を客観化するのは苦しくないこと、になるんだろうか・・?

そういえばそうかな。

悲しみや辛さという沼にどっぷり浸かっているのは苦しいことだけど、

それを映画を観ているように見たら、苦しみを苦しまない。

苦しみがあっても、苦しまないという在り方を、

人は本能的に知っていて、思わず笑ってしまうんだろうか・・・
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やらされる

2012-07-19 14:26:58 | 実例体験観察
昨日、或る事を(やらせよう)という風を人から感じた。

実際、その人がそう思っていたか、私がそうと受け取っただけのことか、それはわからない。

ちょっとしつこかったので、そう思っていたのではなかろうか、というのはあるけれど。

(やらせよう)を感じた時にイヤーな感覚になった。

その時、抵抗の言葉を発した。

こういう抵抗の気分はあまり気持ちのいいもんじゃなかった。

これはオカシイと思って、後でノートに向かった。

その時の気持ちをそのまま書いた。

・・・何故、嫌な気分になったのか・・???考えながら書いた。

(やらせよう)を相手が発していた・・として、

(やらされる)のはイヤと反応していた自分だった。

(やらされる)と捉えていた、ということだ。

相手が或る事を私に(やらせよう)と思っていても、思っていなくても、

自分がその或る事をやりたいのか、やりたいと思わないのか、

それだけの話じゃないか。

他者が発した“干渉”を干渉と受け取ることも出来るし、

干渉と受け取らないことも自分には出来ることだ、とここまで書いて気が付いた。

自分の中に(やらされる)があったので、反発したんだ。

今までもこういう経験をして、ノートに向かって、

あ、そうか!になったことがある。まだ体得には行ってない、ということだ。

また、ひとから(やらせよう)を感じた時に、

自分がどう反応するか・・・次回の機会を楽しみにしよう♪

けど、こういう、人から(やらせよう)を感じても、

私みたいに反応する人ばかりじゃないんだろうな・・と思う。

なんとも思わず、イヤな気分にも“ならない”で、

さらっと流す人もたくさんいるんだろうと思う。

自分の意志でやりたい、というのが必要以上に私は強いのかもしれないなぁ・・・

まぁ、今はそうだということで、流れて行くから、ま、いいかっ。





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