ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

意識は止まったものしか扱えない ③

2012-07-12 20:13:33 | 本を読んで
思い出すというのは時を止めて、過去の場面のその瞬間を観ること。

自分の心のたくさんの瞬間を今ここで観ることが出来る。

それはタイムマシンに乗ってる、ということだね~。意識は時を超える。

「そうすると時間の問題が消えちゃうんですよね」・・

という養老先生の発言はこうして出て来るのか~。

そう、そうなんです、って福岡先生も云ってた。

意識に過去や未来なんて無い。在るのは今ここという瞬間だけだから。

ふーん、なるほど。

いやいや、そんなことを言いたくてこうしているんじゃない。

過去のたくさんの意識瞬間を観察することで、

今ここでは、それがそうなったプロセス

(例えば、その時腹立ったこと、笹舟がそこに在るということ)は、

こういう流れなのではないかと推察出来るようになる。

幾つもの止めた瞬間を観察して、それを繋ぎ合わせるのは今ここという意識。

“時空を経た全体”を観ようとする意識が、

人の言動を観るその時に、働くようになるのではないか・・・

幾つもの止まった部分を合わせて~こういうプロセスがあったのではないかと、

その時受け取れる。

それが「全体を見て動く」

この全体とは空間的な全体だけでなく、時間的全体も含む。

全体と言い切ることは出来ないけど、

それまでの時空を経たプロセス全体を見ようとする意志があるか、ないかで、

反応が変わって来るのではないかと思う。

やはりその意志も境地から出発するものと思う。

自然と全体を見ようとなる・・そういう境地に在る・・というか・・・

ここまで、書いてきて、

養老先生の発言がわからないことがわかってて、よかったぁ、と思ったよ。






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憎んだこと

2012-07-12 16:14:43 | 日々の暮らし・思い出
自分の人生でひとを憎んだ瞬間がある。

その瞬間だけだったと思う。

それとも他にもあったけど、都合よく忘れたのかもしれない。

高校生の時だったかなぁ、家の玄関から出て行く父の後姿を見たとき、

憎悪とでもいうような感情が湧いて来た。

憎悪の炎がムラムラと湧いて来る・・というような言葉を聞いたことがあるけれど、

そういう感じだった。よ~く憶えている。忘れられない。

その当時、どんな事でそう思ったのか、

具体的には憶えていないけど、母の思いが伝染した、というか、

母の言うことを事実のように受け取っていた私だった。

母が父のことを(あの人は~だ)と言っていたこと、それらを全て事実かのように、

受け取っていた私だった。

当時の私は母の言葉を鵜呑みにしていた。母が父を馬鹿だと言えば、

そうか、父は馬鹿なんだ、と思った。

母は父を 馬鹿だと捉えていた、のだとは聞けなかった。

憎んだその日からどの位の月日があったのか、忘れたけど、

多分、結婚して家を出てからのことかもしれない、

私は母の目で父を見ていた、と気付いたことがあった。

母の目ではなく、私の目で父を見ようとその時思ったことを憶えている。

父を見る目が変わった。

それまでの父の姿を母の目というスクリーン無しに見てみると、

あぁ、父があの時、そういう態度をとったのも無理からぬことだった・・・

そんなふうに思えることがたくさんあった。

そんなふうに接されたらよほどの人間で無い限り、へこむ。

へこんで、立ち直れないほどの攻撃を母は父にしていた。

父は母の言葉攻撃から逃げる手段としてだろうと思う。言葉を発さなかった。

何を言われても黙っている。

そしてその場でじーっと母を見ていたこともあった。

そっぽを見ていたこともあった。

時には母を睨んでいたこともあった。

そんなふうだった。どちらもそうなるのも無理ないなぁ、

そう思えるようになった。

夫婦って共に創っているものだと思う。当たり前か。
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池田晶子さん

2012-07-12 14:00:51 | テレビを見て
「梅ちゃん先生」に出てくる松岡ドクターのことを書いていたら、

池田晶子さんのことが浮かんだ。

彼女の著書によれば彼女は非常に短気だったらしい。

何故かそう生まれついている、ともあった。

彼女は松岡ドクターと同じ、論理の人だったと思う。

徹底的に論理の人だと確か自分でも云っていた。

それはそれであんなふうな著作を遺してくれたことによって、

私もすごく考える機会になったし、

多くの人にとってもそういう機会になったのだから、とてもよかったんだけど、

彼女がテレビに出たのを一度見たけど、イライラしているふうに見えた。

もどかしい・・そんなふうに感じてるふうを感じた。

その番組に同席していた経済ジャーナリストの発言に、

ものを考えない人は困ったもんだと思っているように私には観えた。

そういうひとたちをなんとかしたいという無意識のうちのエネルギーがどんどん出ているのを感じた。

彼女はその時そういう自分だったことには自覚はなかったと思う。

著書の中で、「とことん論理的に考えを進めて行って、

考えぬいたその先に、全てはどうでもいいことなのだということになる・・」

というような文章が確かあったと思う。

そんなふうに理屈としては合点であっても、

生活という実践の中では、彼女の意識はそうなってなかった、のではないかと

覗えるようなテレビでの彼女の表情だった。

すべてはどうでもいい、すべてはただ在るがまま在る。

それが境地でもそうであったなら、腹が立つことなど起こりえない。

ひとのことも自分のことも在るがままでいい、どうでもいいのだから。

こんなふうに考える日が来るとは

彼女の本を読んで考えていた頃には思ってもいなかったなぁ。

でも彼女の言葉という存在は、私にはなくてはならぬものの一つだったと思う。

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察する

2012-07-12 10:58:12 | テレビを見て
NHK「梅ちゃん先生」に出てくる松岡ドクター、愛すべき人間という感じはする。

梅子の父親が彼に「しっかりしている君みたいな人がずーっと傍にいてくれるようになると私も安心なんだが・・・」

というようなことを言っても、彼はそのニュアンスを受け取れない。

梅子の同僚が彼に、「それって、結婚の事じゃない?」と言うと、えっ?!と驚く。

こういうのを「察しが悪い」というんだろうな。

松岡ドクターは論理の人なんだけど、観察の人じゃない。

前にも書いたけど、松岡ドクターは日常に論理を挿む。

現象を見て、その展開が論理通りになってないと「それは違うよ」なんて言う。

梅子から、そういうこと言ってるんじゃない、気持ちよ、なんて言われると、

すぐにそうか、となる。

彼の人柄がそうさせるのか、いや、彼の中で、その論理が「正しいのである」になってないからだろう、

正しさを持って放さない状態じゃないから、

梅子も救われる。彼をイヤにならない。

「察しが悪い」という言葉の「察する」は字の通り、「観察」の「察」だ。

その意味は①おしはかって考えること。また、思いやる。同情する。

②細かく取り調べる。詳しく調べる。

ふーん、なるほど。
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