ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

忘れること の 中身 ③

2012-07-09 18:11:24 | ひとの幸福
あ、~しよう が浮かんで、それの実行になるか、ならないかは、

自分が無意識に決めているのかもしれない。

忘れることと忘れないこと。

歯科に行く事や、花がしおれて、花を替える事や、

隅っこを綺麗にする事や、洗浄器のスイッチを入れる事や、

洗濯機の中の洗い終えた洗濯物を干す事や、

ご飯を作る時間になった事や、

行く予定の地域の用事や、

・・こういうのは私がしょっちゅう忘れることだけど、

なんとかなっている。

夫が声をかけてくれることもあるし、

時間がずいぶん経って、そのものを見る機会になった時に気が付いたりする。

洗濯機の中を見て、あ、これは昨日洗ったんだっけ・・

食器を出そうとして、汚れている・・あ、スイッチ入れてなかった・・

タイマーを活用して、鍋を焦がすのは減った。

火事にだけは気をつけないといけない。

次々と現象と共に流れていく自分だからかもしれない。

以前に比べると何かしてる時に意識がそれだけに行っていて、

他のことが頭に無いというのが原因といえば原因だ。

でもそんな原因は変えられない。

集中しないようにしよう、なんてのは無理だ。

そんな中で忘れないことは忘れない。

トイレに行くことは忘れない。寝るのも忘れない。

自宅への道も忘れない。話す言葉も忘れない。

ま、いいか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忘れること の中身 ②

2012-07-09 15:25:07 | ひとの幸福
過去のイヤなことは憶えている。忘れない。

過去の楽しかったことは思い出さない、というようなことを聞いたことがある。

過去の時点で一つの行為行動や状態についてを、(イヤなこと)と捉えていて、

何十年経った今でも、それを憶えているというより、

今ここ でもその人にとってその現象が(イヤなこと)になっているからなんじゃないか。

過去のことなんかじゃない。

だから思い出そうとしなくても、今ここに在るからすぐに出てくる。

夫婦喧嘩で「あんたはいつだってそうなんだからっ!」って。

未来について思うことで、忘れないのは嬉しいことや楽しいことだろうか。

来週の火曜日は遠足だ!早起きしようって楽しみにしてたら、忘れない。

やはり、今ここ で思ってる。そういう今ここが続いている。

イヤなことの予定も忘れないかもしれない。

火曜日は気になっている手術で、イヤだなぁと思っていたら、忘れない。

そういう今ここが続いている。

アレをしよう、と思いついても忘れてしまうのは、

(アレをしよう)という思いが続かない、そういう今ここという瞬間が続かないから・・

アレをしよう、と思ったそのすぐ後に、

別の現象が自分の前に現われ、

その時の今ここではその新しい現象についての思いになってしまう。

拭き掃除していて、この隅っこはもっと薄手の布で拭いた方が綺麗になるな、

後でそうしよう、と浮かんでも、その次にそこではない机に目が行き、

机の上の花がしおれているのに関心が向く。

あ、花を替えよう、と浮かんでも、

その手は次のところへ移る。

これがいけないんだなぁ。~しよう が浮かんだら、すぐに行動に移すことだ。

食べたいや排尿したいと同じように行動したら、

忘れるということにはならないのかもしれない。

排尿をしないうちは消えない(排尿しよう)のように。

でも後にしようと置いといたら、消えるくらいのことは、

その時の自分にとってそのままでもいいのなかぁ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忘れること の中身

2012-07-09 14:45:03 | ひとの幸福
認知症の人はいろんなことを(忘れる)というが、何を忘れるのか?

昼ご飯を食べたという“身体の動き”が在ったという記憶が無い。

実際に食べたという現象があっても、

その認識が無いので、(忘れた)と後の時点で気付くということにならない。

私もよくいろいろ(忘れる)けど、それは何を忘れているのか?

歯科の予約してあるのを忘れる。

歯科の窓口で予約したという“身体の動き”が在ったことを、

夫からの「今日、歯科に行くんじゃないか」という一言で、

「あ、そうだった」と思い出すことが出来る。
 
窓口での“身体の動き”も在ったし、

その時に「火曜日に又来よう」というような“意識の動き”も在ったともいえる。


これと違って、「あ、アレしよう」と思って、ニ、三歩歩いたら、忘れてしまうことがある。

これについては何かをしたという“身体の動き”が無い。

私が口に出さずに「あ、アレしよう」と思ったことなど、他の誰にもわからない。

朝方、何か閃いて、それを憶えておこうと思っても、忘れてしまうので、

枕元にメモ用紙を置いておく。その時すぐに書いておくことをしてる。

意識は流れていくから、川に流した笹舟みたいにどんどん先に行ってしまう。

けれど、このことも、書かないでいても、他の人に言わないでいても、

後の時点で思い出すこともある。

(そうしよう)と思った瞬間が在った、ので、それを思いだすことがある。

トイレに行こう、ご飯を食べよう、なんていうことは顕在意識で(しよう)と思う間もなく、行動に移している。

すぐに食べ物がそこになく、食べると言う行動ができなくても、

その為の行動、冷蔵庫から何かを出したり、料理を作る準備をしたり、

食べ物を買いに行ったり、といった行動にすぐに移る。

ご飯を食べよう、になってから、その為の行動をとらないでいることはないんじゃないか。

食べるまで(食べたい)という意識現象は消えない。

(排尿したい)という意識現象は排尿しないと消えない。

(火曜日に歯科に行こう)と思っても、その日が金曜日なら、

すぐに何かの行動をすることは無い。

せいぜいカレンダーに印をつけたり、夫に言うくらいのもの。

それに比べ(食べたい)や(排尿したい)となっている意識現象は忘れることがない。

(排尿したい)が今ここに在る。そういう今ここが続く。

(火曜日に歯科に行きたい)が金曜日の歯科での時点で“今ここ”に在っても、

そういう(~に行きたい)というのがその時点だけで終わるのはやむを得ない。

行きたいといってもその時に行くわけじゃないから。

食べたいや排尿したい、とは異なるから。

食べたいや排尿したい・・は自然。

自然のこころはいつも“今ここ”なんじゃないか・・・

歯科に行こうなんてのは人工的だからね~

そういえば、赤ちゃんは「明日もおっぱいを飲もう」なんて思わない。

赤ちゃんは“今ここ”にしか生きていないからなのかなぁ。

でも私、赤ちゃんじゃないし・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする