ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

「サラメシ」餃子と小説

2012-07-13 14:08:25 | テレビを見て
昨夜なんとなくテレビを見てたら「サラメシ」という番組だった。

多分サラリーマンの昼飯で「サラメシ」なんだろう。

作家の角田光代さんが出ていた。「八日目の蝉」を書いた人だ。

それを読んだことがあるので、興味を持って見た。

彼女は毎日昼飯に自分で作った弁当を食べているよう。

「小説はこういう感じのを書こうと思って書き始めても、

全然そうならないのに比べて、

料理というのは、餃子を作ろうと思うと餃子が出来るんですよね~」

・・というようなことを言っていた。

なんて正直な感想なんだろうと思った。

餃子は行動することで出来る。

物質的なこういう物を作ろう、と決めると、

材料を揃えたり、刻んだりして手を動かすことでそれが出来上がる。

小説は行動することで出来上がることはない。

ペンで書く、とかパソコンに文字を打つというのは行動だけど、

餃子と違って文字は行動して、この世に出てくるもんじゃない。

意識が文字を書かせる。意識は止まっていない。

書く、表現することで意識の流れが変わることがある。

小説じゃないけど、こんなふうな文章を書いていて、それはしょっちゅう実感する。

意識は生き物だ。意識はやはり生命なんだと実感する。


笹舟と判断

2012-07-13 12:58:14 | ひとの幸福
笹舟が目の前に来たら、あ、笹舟だ、と受け止める。

笹舟のその時の“在るがまま”を受け止められる。

それを不満や不平に思わないし、非難することも無いのが普通だ。

昨日も書いたけど、笹舟が流れて来たことがわかっている。

誰かが流したことや途中で引っかからず、解体もされず、

ここまで流れて来たと無意識的にしても、意識的にしてもわかっている。


ひとはいろいろな事をしている。

一つの現象を見聞きして、非難したり、不満に思ったりする。

それはその一つの現象を見聞きした時に、

その事だけを単発的みたいに取り上げ、それについての判断を瞬時に持つからだろう。

例えば、人が人を傷つけた事を見たり、知ると・・・瞬時に酷い!良くないと判断する。

他者を傷つける事、その場、そのシーンだけ見れば、それは良くないと言える。

その事自体は良くない事には違いない。

決して良い事じゃない。

その出来事を単発的なもの、止まって在るもの、繋がりの無いもの・・・

・・と無意識のうちに捉えているので、そう判断が出来る。

そう判断していることに何の疑問も持たない。

正々堂々と非難できる意識に“なる”のはちゃんとこんなふうなわけがある。

どんなことも理に適っているから起こる。

物の現象も意識の現象も同じだ。

それがなるべくしてなっている、ということだろうと思う。


事件には背景があるとかよく言う。

裁判なんかで情状酌量の余地がある、なんて言うけど、そういう背景は全体じゃない。

全体のホンの何分の一かだろう。

その人が生まれる前から始まって、今に至っている意識の全プロセスというものが在る。

けれど、人間の能力を最大限駆使したとしても、

その全てを推察することは出来ない。

全てから見たら、ほんのちょっとだけだろうけど、

そうなって来た・そう流れて来た意識プロセスを観ようとする意志をもっと持てたら、

世の中はもっと進化して行くのかなぁと思う。

現象の始まりは意識という無現象からだから。

全体を見ようとする・・

2012-07-13 10:43:03 | ひとの幸福
過去のたくさんの意識瞬間を観察することで、

今ここでは、それがそうなったプロセス

(例えば、その時腹立ったこと、笹舟がそこに在るということ)は、

こういう流れなのではないかと推察出来るようになる。

・・と書いたんだけど、それだけじゃない・・・・

今までも何度も書いて来たことだけど、

人間の本質や本来の人間とはどんなものかがわかってないと、

そのプロセスのひとつひとつやそういう流れに“なる”ことをガッテン出来ないはずだ。

ひとから貶されたら、めげる・・のは何故か?

貶されるような人間は本来誰も居ない、ということを人は皆知っているから。

ひとのせいにするとなんだか、ちょっと気が楽になるのは何故か?

それが自分という単独のせい、ということが有り得ないということを人は皆知っているから。

嫉妬した時イヤ~な気分になるのは何故か?

所有なんか出来ない事を人は皆知っているし、それが無理な事を皆知っているから。

ひがんだ時に暗~い気持ちになるのは何故か?

人と人とを比べることなんかナンセンスだと元々知っているから。

人からやらされると思うと、やる気にならないのは何故か?

人は元々自主的に、自分の意志でやれるようになっているから。そういう存在だから。

人からあーせい、こーせいといちいち指図されてその通りやっていると、

人が萎びて来るのは何故か?

自分で自分を正常に保つようにコントロール出来る術を生まれながらに持っているから。

自分のしたことがひとに喜ばれると何故嬉しく感じるのか。

他の人の喜びは自分の喜びだと知っているから。


・・・こういうことを人が知るだけでも結構いいなぁと思う。

この世では、人間を卑下しすぎてる。

アレキシル・カレルの「人間この未知なるもの」を読んだ時、

それにはそんなことが書かれてあったわけじゃないけど、

人間をもっともっと本質的に知りたいと強く思ったことを憶えている。

人間はもっともっと持ってる力を発揮できる。

持っているのに、持っていることを知らないだけなんだね~

天井裏に金塊があっても、その存在を知らなかったら、

無いのと同じ対応になるのと一緒で。