ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

世間・ひとさま

2012-07-29 18:11:30 | 言葉
日本には「世間がどう思うか」とか「ひとさまからどう思われるか」

・・というような言葉がある。

若い頃は(少し前まで若かった^^)こういう言葉に反発があった。

世間やひとがどう思おうとそんなこと関係ない!っていうのが強くあったので、

こういう言葉に抵抗があった。

やっと、こういう言葉が日本には在るということが受け入れられるようになったよ。

受容とは在るものを在ると受け入れることだからね~

少し前に「癖」というのを書いた。

自分の癖、自分のニオイ、自分の姿・・は自分では見えない。

ひとからの方がよく見える。当たり前かも。

自分というものの一部に目が付いているから、見えないものの一番は自分の目だ。

自分の脚や手なら見えるけど、目は絶対見えない。

そういう意味で「ひとさまからどう思われるか」という言葉は有効かなと思う。

「世間がどう思うか」というのも同じようなものか・・

自分を見るのにはひとさまや世間の方が相応しい・・面もある。

この「見る」というのは客観的に見ることが出来るということ。

客観の最たる視点は天だけど。

ひとさまから見えるのはひとの地(じ・痔じゃないよ)のようなものが見える。

地でやればいい・・とかいう、その地。

意味を調べると「加工する前の材料や土台」というような意味もあるみたいだ。

取り繕ったりしてもそれはひとからはよく見えると思う。

全体の“感じ”が見える。自分からは自分の部分しか見えないけど。

あの日あの人はなんかちょっと不自然だった・・・なんてのもある。

ここがどうってはっきり言えないけど・・なんて。

なので「ひとさまからどう思われているか」は大事かも。

自分では出来ない事をひとさまはしてくれてる。

でも、ホント、おちょくって「ひとさま」っていう言葉が日本に在るわけじゃないんだから、

日本の言葉は深いね~

みなす・見為す

2012-07-29 14:11:59 | 言葉
或る人を嫌な奴だとすれば(測定すれば)相手は“嫌な奴”として存在する。

嫌な奴だとする(測定する)人間が一人も居なければ、

“嫌な奴”など存在しないように、この世は作られている。

・・こういう文章をさっき書いた。


或る人を嫌な奴だと“すれば”(測定・観測すれば)の、“すれば”。

嫌な奴と“思えば”という表現ではない、と思って、そう表現した。

以前は「思えば」という表現を使った日も、もしかしてあったかもしれない。

何度も「意識の状態」「境地」「存在の状態」という表現でも書いて来た。


さっき、「みなす」という言葉がやって来た。

或る人を“嫌な奴”で在るとみなすと、その人は嫌な奴として存在するようになる。

この表現がいい、ぴったりだ。

みなす とは広辞苑で見ると(見做す・看做す)とあり、

その意味は「①見て、これこれだと仮定または判定する。

実際はどうであるかにかかわらず、こういうものだとして扱う。

②見きわめる。見届ける。

③見るようにする」以上。


みなす を 広辞苑にはなかったけど、

「見て」と「為す」のくっ付いたものという解釈も出来るなぁと思った。

そうで在ると見て、その出発点から行為すること。

「見為す=みなす」

ピグマリオン効果の(~として扱う)も見為すだ。


後は野となれ山となれ

2012-07-29 11:03:23 | 言葉
「後は野となれ山となれ」という面白い言葉がある。

あまりいいイメージじゃないのかもしれない。

「なれ」と意志したって、ならないものはならないんだから、

これは「なれ」という命令形をしてるけど、

後は野となる山となる、かもしれない。

過疎化一方のこの地に住んでいて、

この地の何十年後はもしかして野となり山となる運命なのかと思う。

既に一部はそうなっている。

私が楽しんでいるたくさんの鉢植えも私が死んだら、どうする?って夫に聞いたら、

畑に持っていくって。地植えにするって。へぇーと思ったよ。

そうなるとしても、その地で絶えて行くものは絶え、残るものは残るんだろう。

隣の畑の主はここのところ畑に来ないなぁと思っていたら、

入院しているということだった。

人の手が入らなくなるとこうなるんだなぁと実感。

草はぐんぐん大きくなり、蔦は木にはべり放題。

作物も収穫されず生命のままに大きくなる。

エントロピー増大の法則で混沌状態なんだろうな。

他を動かす手を持つ人間が居なくなると、

それぞれの生命は自らの意志で自ら動くだけなので生き放題。

そして絶えるものは絶えるのかもしれない。

私たちの身体もやがては野となり山となるんだろう。

後は野となれ山となれ は当たり前のことを云っているのかなと思ったよ。


不確定性 ⑤

2012-07-29 08:21:05 | 量子力学と心
人間にとって世界は不確定性になっているからこそ、

いわば、選択できる。どのようにでも測定できるということだ。

これはこの世が相対性という仕組みでなっているということなんだろうな。

良いと悪い・快と不快・美と醜・高いと低い・上と下・右と左・早いと遅い・

西と東、北と南、出来ると出来ない、賢と愚・・・

こんなふうに私たちは何かを観るときにこの相対性を使う。

それ無しではにっちもさっちも行かない。

この世が相対性・・と書いたけど、この意識、と言いかえられる。

物事を捉えるときにその定規がないと測れない。

ほら、そこ、その右よ・・とか

北の方に見えるでしょう・・とか、上の子の方が美人になるね~とか・・

選択できるのは意識が相対性になっているからこそ。

大文字のGODは絶対のもの。小文字のgodである私たちは相対のもの。

私たちはどちらかを選んでいるという在りようをしている。

いつの日かこの世が戦争も、小さな人間間のトラブルもない世界になると思うけれど、

それも私たちが絶対のものになる、ということじゃない。

人間の意識というものは相対のものである、ということからは抜け出せない。

戦争と平和とで、常に平和を選ぶという選択をする、

そういう相対者になるということかと思う。


不確定性 ④

2012-07-29 07:56:41 | 量子力学と心
「不確定性の世界」

人間にとって世界は不確定性になっているからこそ、

いわば、選択できる。どのようにでも測定できるということだ。

自分たちの測定次第でそれなりの人や事物が存在するようになる。

これは凄い事だと思う。

自分次第で世界・人生は如何ようにもなるということだから。

これは一人一人の人間は湯川博士の言葉でいうと「造物主」であり、

表現を変えれば「創造主」ということになる。

湯川博士のいう「造物主」は他を動かす手は持たない。

造物主・生命は他の生命の動きを受けて、自ら動くだけで、

他を動かそうという意志は持たない。

神と私たちとの歴然と異なる点は、

私たちは神が持っていない「他を動かす手」を、

持っているということだ。

それが出来る、という物理的身体を持っている。

・・ということは神より私たちの方が、

力を持っているということになる!?

そうだろうな、他を動かすことであるところの、

人を殺すことも出来るし、戦争もしてる。

それに対し神は何もしない。何も出来ない。

「造物主は他を動かす手を持たないもの」として存在しているのだから。

戦争や人殺しや人を傷つけることに対して、

何かを出来るのは人間だけだ。

神や仏が戦争を起こしたり、世の中や人を

どうこうしてくれることなんかない。

そういう力を持っているのは私たちだけなんだね~。






不確定性 ③

2012-07-29 07:16:49 | 量子力学と心
『人間が測定できないだけで確定した値がある』

この言葉から昨日は、あーいう展開になったけど、

さっき、自分の昨日の文章を読んでいたら、もっと違う解釈があるんじゃないかな・・

が、浮かんだ。

人間が測定できないだけで・・・というのは・・・?

確定した値・・とは・・?

こう考えるとき、私の頭の中ではいつも人間界ではどういうことだろう?というふうに考えてしまう。

量子力学が人間の意識界に関係ないわけがないという確信があるのでついそうなってしまう。

観測される側の確定した値・・とは人間界でいうと、

人間とは、自発性・自律性・自立性・自主性が在るもの。

自由、幸福を希求してしまうもの。

・・そういう性質を持ったもので“在る”ということなんじゃないかな。

そういうもので在るという観測が出来ないだけで、

本当はそういうものだという確定した値がある。・・・という解釈。

人間をそういう者だと人間が測定しないので、神が確定した値など見えない。

おーおー、神が確定した・・と言ってしまった。

(こんなふうに、おーおーとか思うのも、

神が云々なんて言うと、速やかにレッテルを貼られる危険性があるのではないかという・・・

・・危惧が私にはあるんだろうな・・

でも今はそれほどでもないのかな?わからない)

神というより、「生命」が確定した、の方がいいかな。

同じものと解釈してるから。


『測定と無関係に、確定してる量など存在しないように、この世は作られているというのです』

或る人を嫌な奴だとすれば(測定すれば)相手は“嫌な奴”として存在する。

嫌な奴だとする(測定する)人間が一人も居なければ、

“嫌な奴”など存在しないように、この世は作られている。