人間以外の生命である太陽、地球、月、星、植物、動物は他を動かそうと作為しない。
結果的に見ると、台風で大雨が降り、
山が崩れて土砂が流れ落ち、木々をなぎ倒し、
家を流し人が死ぬというようになることはあるけれど、
台風は他である山や木々や家や人間を動かそうという作意はない。
その時のさまざまな相互作用で、ただ在るがままに動いているだけだ。
動物の一部は他の動物を食べる為に殺してしまうことがあるけれど、
それは生きたいという本能が起こす行動であって、
他をなくしたいという作為はないと思う。
人間以外の動物って書いたけど、
人間も生命ある豚や牛や鶏を食べるなぁ。
それをなくしたい、殺したいという作意はないということなんだろうけど・・・
(こう考えると、そういう行為はやはり動物並みということになるね~、脱線だけど)
神や仏がわたしたちをどうこうすることは出来ない。
私たちをどうこうできるのは私たち人間。
他を動かす手を持っている私たち。
手を持っているからこそ、山から木を切り、材木にし、家を作る。
地球を掘り石油を取り出す。
そうこうして文化があり、文明がある。
私たち、私たちが住む世界、生きる人生、をどうこうできるのは人間である、
という事実は何を云ってるか・・というと・・・
それを出来る手段を持っているということだ。
それは頭脳であり、精神であり、意識であり、心であり、思考だろう。
それによって言葉を使えること、
脳の指令で動く身体があるから行為できること、
意識を持っているから経験を頭に入れられること。
経験があるからこそ、どんなものでも経験を活かしてよりよきを創れる。
経験は心も身体も含む。体験は身体の経験だ。
造物主は手を持たないという湯川博士の言葉が云っているのは、
造物主は作ることは出来るけれど、体験は出来ない・・ということなんじゃないだろうか。
造物主は体験を可能にする「身体」がないから。
物質ではないから。
神・生命は心と身体を持つものとして人間を創造した・・・
他の生物とは異なる特色を持つ人間を神は何故創ったんだろう・・・???
結果的に見ると、台風で大雨が降り、
山が崩れて土砂が流れ落ち、木々をなぎ倒し、
家を流し人が死ぬというようになることはあるけれど、
台風は他である山や木々や家や人間を動かそうという作意はない。
その時のさまざまな相互作用で、ただ在るがままに動いているだけだ。
動物の一部は他の動物を食べる為に殺してしまうことがあるけれど、
それは生きたいという本能が起こす行動であって、
他をなくしたいという作為はないと思う。
人間以外の動物って書いたけど、
人間も生命ある豚や牛や鶏を食べるなぁ。
それをなくしたい、殺したいという作意はないということなんだろうけど・・・
(こう考えると、そういう行為はやはり動物並みということになるね~、脱線だけど)
神や仏がわたしたちをどうこうすることは出来ない。
私たちをどうこうできるのは私たち人間。
他を動かす手を持っている私たち。
手を持っているからこそ、山から木を切り、材木にし、家を作る。
地球を掘り石油を取り出す。
そうこうして文化があり、文明がある。
私たち、私たちが住む世界、生きる人生、をどうこうできるのは人間である、
という事実は何を云ってるか・・というと・・・
それを出来る手段を持っているということだ。
それは頭脳であり、精神であり、意識であり、心であり、思考だろう。
それによって言葉を使えること、
脳の指令で動く身体があるから行為できること、
意識を持っているから経験を頭に入れられること。
経験があるからこそ、どんなものでも経験を活かしてよりよきを創れる。
経験は心も身体も含む。体験は身体の経験だ。
造物主は手を持たないという湯川博士の言葉が云っているのは、
造物主は作ることは出来るけれど、体験は出来ない・・ということなんじゃないだろうか。
造物主は体験を可能にする「身体」がないから。
物質ではないから。
神・生命は心と身体を持つものとして人間を創造した・・・
他の生物とは異なる特色を持つ人間を神は何故創ったんだろう・・・???