ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

大津いじめ事件 ②

2012-07-27 14:21:33 | テレビを見て
でもまぁ、メディア、特にテレビは容易く情報を得る手段だ。

新聞を読むよりも容易い。

そのテレビというものは「わかりやすさ」が売りだから、

子供向けのお話みたいに正義の味方と悪役の構図は「わかりやすさ」のトップなのかもしれない。

人間は善悪を知る木の実を食べたのが始まりであったとしても、

それはあくまで始まりであって、

いつまでも始まりのままじゃないとは思う。

日本のテレビが変わるのは、

やはり日本人の意識が変わることからなんだと思う。

一人一人の力は小さくてもたくさんの人が力を合わせれば・・・という言葉もあるけど、

何かをする力は何かで在ることから始まる。

大津いじめ事件

2012-07-27 13:43:05 | テレビを見て
大津のいじめ事件がずいぶん長いことニュースになっている。

大津市長が遺族に謝罪するニュースを見てもどうもしっくり来ない。

教育委員会や市や学校に対する不信感や非難ばかりが目立つ報道に違和感を感じる。

一緒に暮らしていた親の方が教育委員会の人や学校の校長や市長より、

その子が生まれる前からずっと子供に影響を与えていたという事実はあったと思うけれど、

親は遺族で被害者だという認識からか、

報道は親と学校・教育委員会・市長とを対立する図式に当てはめているように見える。

そして、親をいじめという出来事の蚊帳の外みたいな立場に置いているように見える。

まるで親はいじめられていた息子になんの関係も無いというモードがそこには感じられる。

いや、親を批判、非難すべきなんて云ってるわけじゃないよ。

ただ、なんか不自然な感じを受ける。

タブーを感じる。

報道する側に被害者の遺族に攻撃の矢を向けるのはよくない、

というような無意識の働きがあるのかぁ・・

それがあったとしたら、その無意識の働きが起こる前には、

親を非難、批判、攻撃しているからこそ、で。

(それがいけない、なんて言ってないよ)

自分が非難、批判しているということがわかっていても、

遺族にはしてはいけないことだから、それを発せられない。

そういうことは良くない事と決めているからこそ、

それを発することが出来ない。

そういう意識プロセスがあるようにも受け取れる・・・

いや、そんなふうな親に対する認識もないのかもしれない。


悪いのはこっち、悪くないのはこっちと決めたがる善悪二元化が

凄まじく進んでいる・・という実態なんだろうか・・

悪役はこっちだと一度決めたら、

そういう路線から外れる情報は選択しないのかもしれない。

事実を明らかにするということは善悪を決めることじゃない。

それは善悪なんか関係ない。事実自体に善悪はない。

教育委員会が一度だか、自殺した子から親のことで悩んでいると担任が相談を受けたことが在った、

というような発言をしたのをニュースで見たけど、

その後、それは聞かない。

これも報道する側に無意識の選択があったんじゃないかなと思う。推測よ。

(事実はわからない)

市長が事実を明らかにしたい、と言ったよう。

事実を速やかに明らかにしようとしなかったことを謝罪しているのであって、

いじめが自殺の原因だったと謝罪したわけじゃない。

事実を明らかに出来ないのは、

幾つもの、それは良くない、悪い!という決めつけ、潜在意識のプログラムが在るからだろう。

その判断を溶かさない限り、事実は明らかにできないんじゃないかなと思う。


面白いのが好き

2012-07-26 18:31:28 | 日々の暮らし・思い出
なんで、毎日のようにこのブログに向かっているんだろか・・・

その時その時、頭に浮かぶ言葉の続きを考えたくてたまらないから。

特に歩いているときや車の助手席にいるときは、暇なので、いろいろなことが浮かぶ。

勝手に浮かんで来る。浮かんで来て、それに?が湧くと、

それを考え始めるようだ。でも考えた内容を文字にしたものが目の前に無いと、

すぐに消えてしまうので、

続きを考えられない。それでもって、

キッカケの言葉だけ大事に家にもって帰り、メモする。

座れる時が来たら、座ってパソコンのワードに向かう。

この頃はパソコンの調子が悪いことが多く、

このブログの編集ページの新規投稿欄に浮かぶ言葉を綴って、

あーそうなのか、なるほど、なんて自分でガッテンしていると、

そのままパソコンが止まってしまうことがあって、アララ・・消えてしまい、

何がなるほどだったんだっけ?状態になったことがあって、

(その程度なんだ、わたしの「なるほど」は。

だから以前の文章を読むと、へー、なるほど、なんて思うことがある)

それからはワードで書いてからコピーしたりすることもある。

こんな文章は直接ブログに書いてるけど。


こんな感じで書きたくて書いてる。面白いから。

昔から、自分の何かする時の価値基準は面白いか、面白くないか、だったなぁと思う。

それでひとによく「面白かった?」と聞いてた。

「それは面白いって言うようなことじゃないから・・」っていう返事もよくあった。

ちょっと見下げるような視線も感じたことあるよ。

そんなことちっとも気にならなかったけど。

どんなことも面白いか面白くないかに私は分類できたんだけど。

そんなの感覚だから。

やることが無いというのが一番つまらない。

できればそういう目に遭いたくない。

「歯をはなす」

2012-07-26 16:29:27 | テレビを見て
昨夜の「ためしてガッテン!」面白かった。

身体の肩こりや腰痛やおならやげっぷや、いろいろな不調が起こるのは、

ひとつにこういう身体の癖によって起こるらしい・・という奴だった。

な、なんとその癖って、上下の歯を噛み続けていること。

回答者のやませまみちゃんとゲスト回答者のナンタラさんも、

口に中を見たら、そういう形跡があったよう。

自然な現象としては上下の歯がくっ付くのは一日に20分くらいだと、

確か言ってた・・・多分・・

その癖を改善する方法というのが、集中して何かをする場所の目に付く所に、

「歯をはなす」というメモ紙を貼っておくこと。これだけ。

一週間それをやった被験者の肩の硬さを計る計器の数値が42から25に減っていた。

その癖が齎す身体の不調を見つけたドクターが出ていたけど、

彼が言ってた注意事項は「歯を放そうとしてはいけない」ということ。

放そう放そうとするのはストレスがかかり、症状はよけい悪くなると。

「歯をはなす」と書かれたメモ紙を見た時だけ、ハッと声を出し、肩を下げる。

ハッと声を出すときは絶対上下の歯が離れる。

そう“なるように”ハッと声を出すだけ。

ずーっとそれをやっていると、一週間の最後の方には、その紙を指差すだけだった。

ハッと声を出し、肩を下げなくても、歯がはなれるようになったのかもしれないと思った。

歯をはなそうとしてはいけない、という言葉に、

本当にそうだと思った。

今ここという瞬間にすることが(~しようとする)はあり得ないからね~。

そう“なるように”行為する。

どんなことでもそうだね~

この例のように、それが出来るのは自覚があればこそ、かな。

意識してやること。

そしてそのうち無意識で出来るようになる。

一朝一夕には行かないけど、

それを成功させるのは情熱というものかもしれない。

「なりたい一心で」という表現でいうことなのかもしれない。

わたしはそれで外股歩きを改善することができました♪


「暑いなぁ」

2012-07-26 11:05:35 | 言葉
「暑いなぁ」・・・こういう表現があって、

そう思っている主語は隠れているけど、それを発した「自分」「私」だ。

言葉は認識だからこそ、主語は自分に決まっているから主語なんか付けないのかと思う。

いちいち「私は」なんて言わなくても、

自分の口から出る言葉は自分の認識以外何ものでもない。

そういうことを日本語を話す人は知っていると、

日本語の表現が云っている。

「万物が生ずる根元」

2012-07-25 19:25:03 | 言葉
天地間を満たし、宇宙を構成する基本と考えられるもの。又、その動き。

自然現象。万物が生ずる根元。

生命の原動力となる勢い。活力の源。

・・・これは広辞苑で、「気」という言葉の意味として出ていた一部なんだけど、

それが本当に実在と一致しているのかどうかは知らないけれど、

日本語では「気」をそういうものとしてずーっと使って来たという事実はあるんだろうと思う。

日本語は気をそういうものとして扱って来た。

このことは凄いことだと思う。

「言葉は神であった」と言える位のことだと思ってしまう。

ヒッグス粒子がこの宇宙に物質をもたらした元だとかのニュースが最近流れて、

それは大発見らしいけど、

もしかして本当にそうなのかもしれないけど、

それがわかっても、ヒッグス粒子・・あ、そう、くらいで、

関心の無いひとも結構居るんだろうと思う。

ヒッグスでもビッグズでもエックスでも万人に関心は持たれない気がする。

だからどうした・・という気もする。(わたし)

それが実際に私たちが生きているそのことに、どういう意味があるのか、

物質があるようになったわけなのかもしれないけど、

それだけじゃ、面白くない。

宇宙に物質が存在するようになったのはヒッグス粒子があったからです。

あー、そうですか。面白くも何とも無い。

もっとわくわくするような解釈がほしいな。

「気」という字の意味の方がずっとわくわくする。



「なにげに」

2012-07-25 18:59:42 | 言葉
「気」 を広辞苑で見ると、いやいや、たくさん並んでいる。

一番最初がこれだ。

「天地間を満たし、宇宙を構成する基本と考えられるもの。又、その動き」

あとは・・・

「自然現象。万物が生ずる根元。

生命の原動力となる勢い。活力の源。

心の動き・状態・働きを包括的に表わす語。

精神。事に触れて働く心の端々。持ち続ける精神の傾向。人がら。

ある事をしようとする心の動き。つもり。

ある事をしようとして、それに引かれる心。関心。

根気。あれこれと考える心。

感情。空気。大気。気体・気圧。あたりにみなぎる感じ。

鬼気・霊気・雰囲気。呼吸。いきづかい。

その物本来の性質を形作るような要素。特有の香や味。」

「け」としては・・・

「様子。けはい。心もち。ここち。気力。心身の力。

病気。生まれつき持っているもの。持ちまえ。なんとなく。

そのような様子。傾向が感じられること。」

「気」というだけでこんなにある。それもかなり意味が深いものが多い。

なんだか凄い気がする。圧倒される。

辞書というものは、言葉がこんなふうに世の中で使われているという実際の使われ方が出ている。

そんなこと当たり前のことなのかもしれないけど、驚いてしまう。

広辞苑で「気」を見ても、『太平記』とか、蕪村の歌とか、

他にもいろいろな引用例が出ている。
 
昔からたくさんの人が実際に日々それを使って来たことが、

広辞苑に出ているというそのことが面白いと感じる。

言葉は日常的に使うもの。生きているもの。

流行語だとかもある。

文法上おかしいんじゃないか・・なんていう指摘があったって、構やしない、

だって通じてるんだから・・みたいなことが起こるのも、

言葉が生き物だということの現われなんだろうなぁ。

「なにげに」なんてのも昔はなかった。

語源は「何気ない」なんだろうと思うけど、

それだとすると「何気に」は意味なんか殆どないみたい。

言葉が人と人との関わりに実際に使われている、ということが、

理屈を吹っ飛ばすんだろうか。

この「なにげに」もいつか、広辞苑に載るんだろうか。

それともなにげに消えて行くんだろうか。

気にしない・気にならない

2012-07-25 15:44:42 | 言葉
気にしない・気にならない

日本語で「気」という字を使う言葉遣いはすごく多いし、なかなか面白いと感じる。

ひとが何かを気にして悩んでいるときなどに、

「そんなこと気にすることないよ」とか「気にしないで」とか言うことがある。

「あのことが気になるのよ」と聞いて、

「気にならないで」という言い方はしない。

「気にすることないよ」か、「気にしないで」が自然に感じるものだ。

そういう言葉をかけてくれる気持ちは嬉しく感じるけれども、気にならない状態にはならない。

なる、ならない、は本人の状態で、それは他者が直接的にどうこう出来る範囲を超えているので、

他者に向かって言う言葉としては、「気にならないで」というのは不自然に感じるんだろうか。

他者が言うことが出来るのは「気にしないで」「気にすることないよ」止まりなんだろう。

そしてそれすらも言葉の奥にある愛には気付くけど、

言葉自体には効能があるとはいえない。

気になっている自分に声かけるとしても、

気にしないようにしよう・・とは呟くかもしれない・・・なんか空しいけど・・

気にならないようにしよう・・とはつぶやかない。

気にならなくなりたい・・・そう思うこともある・・かもしれない・・

心の状態について、言う時に、

そういう表現をするしかない、この自然感覚が面白いと感じる。

生まれた時から日本語を聞き、使って来た私たちは、

「なる」という言葉の深さを知らないうちに身に付けてしまったみたい。

全 と 部分

2012-07-24 14:59:18 | 言葉
聖書ヘブライ語では「神=YHWE=GOD=すべてのものに私はなる」

何度もしつこいけど、この言葉が在ることに驚く。

すべて・・とは何か。すべてはすべて・全て・総て・凡て・・全。

このテーブルに在るもの。この世界に在るもの。この宇宙に在るもの。

目に見えるもの、見えないもの。全人類。全宇宙人。

このハンカチ、この私、あの人、このテーブル、これは「全」のうちの「部分」

戦争という出来事、平和という出来事、ケンカという出来事、トラブルという出来事、

みな、「全」のうちの「部分」かと思う。

「すべてのものに私はなる」この私とは聖書の大文字のGOD。

部分であるすべてのもの は 小文字のgod。

godとGODは一体という全体。

どの部分にも全ての痕跡がある。






「変える」 

2012-07-24 11:49:01 | 言葉
「世の中を変える」「社会を変える」・・という言葉がある。

「変える」という動詞には目的語があって、

この場合世の中、とか社会になると思うんだけど、

この言葉には変える側と変えられる側の二つの世界がある。

この場合、主語は見えないけど、主語は「私たち・私」で、それは変える側で、

「社会」は変えられる側ということになる。

なんか、当たり前のこと書いてるなぁ。

変える、というからにはそこには意志が含まれている。

変えたい、変えようという意志がある。

「社会を変える」という言葉はよく聞くけど、

その、変えられるべき社会には自分は含まれていない、というニュアンスを感じる

私は私を変えるという表現もあるけど、上の言葉使いは自分抜きのように聞こえる。

自分が社会に居ないということはないし、社会の一員ではあるんだけど、

「世の中を変えよう」という発想には、

自分は何も変わることはない 変わらなくていい という心がある。

自分以外のものが変われば世の中が変わる、と思っている。



小泉さんと笑い

2012-07-24 10:48:49 | ひとの幸福
そうとう時期外れだけど、自民党の元首相の小泉さんを思い浮かべると、

笑顔と、「いけしゃあしゃあ」という言葉が出て来る。

笑いと客観化というのでこの前書いたけど、

小泉さんは今の野田さんや菅さんや自民党の谷垣さんや大島さんや石原さんより、

自分を客観化するという数値が高かったのかなぁという気がする。

何かを公約違反じゃないかと詰め寄られた時だったと思うけど、

「人生いろいろ」とか言って笑ってた。

所謂「いけしゃあしゃあ」というような顔をしていた。

そういう小泉さんをマスコミは結構批判したんだっけ?・・

あまり憶えていないんだけど。したんだろうね。多分。

小泉さんはこれはダメ、あれはいけないこと、というような固定的判断の少ない政治家だったんじゃないかと思う。

なんとなく自由な雰囲気を感じさせた人だったように思う。

そう、軽かった。谷垣さんや野田さんみたいな重さは感じなかったなぁ。

あの笑いは自己客観化していた姿だったのかなと思う。

それをよく「無責任」という言葉で表現するけど、

そうだね、責任が無い、とは心の状態を表わす言葉。

「責任」という観念がその人の中に無い。

「責任」という目に見える現象はないしね~

無責任は無評価、無判断に通じるのかな。

「無責任」というと、すぐに「いけないこと」がセットで付いてるような世の中の気風があるけど、

結構深い言葉だね~


稲荷さんの祭り

2012-07-23 17:20:41 | 日々の暮らし・思い出
今日は近くの神社の祭り。

もうじき96歳になる義父にとっても、夫にとっても懐かしいお祭りなんだろうと思う。

さっき音だけの花火が上がり、いや、音だけじゃなく、

バンと鳴った後に白い紙が捻ってあるものがひらひら落ちてくる。

集落の数人の子供や子供より多い大人が寄ってきてそれを拾う。

祭りの景品がそれに書いてあり、拾った人がそれを貰うというイベント。

ここに来てもう7年目になる。

打ち上げ花火は浜まで行って見るけど、

この景品花火を見に行ったのは初めてだ。

祭りの雰囲気の元の出店も祭囃子も何もないけど、

ひらひら舞う白い紙とそれを取ろうとする笑顔は祭りの雰囲気を少し感じさせてくれた。

自分の目の前にそれが来たら、拾いたいなぁと思った。

自分の前には落ちて来なかった。

景品を貰うという経験をしたくないわけじゃないんだけど、

まぁ、いいや、とすぐに思ってしまう。

夫はその景品を渡す係りをやっていて、

誰にも当たらなかった西瓜をニコニコ顔で貰って来た。

200個くらいの景品があったそうだけど、白い紙は海に落ちたり、山に落ちたりして、

人の手に渡らないで終わってしまうものも多いらしい。

残った景品ですぐに賞味期限切れになるようなものは、

係りで頂くようになっているそう。

暗くなったら打ち上げ花火が上がる。

少ない数だけど、私にはちょうどいいといつも思う。

エンエンと打ち上げ花火を見たいという気持ちがあまりないもんで。

夕飯は近くの鮨屋さんのものを受け取りに行く。

義父が取ろうかと言ったので、頼んだ。

昔から祭りの日はご馳走だ。

今は毎日が祭りみたいだけど、やはり義父にとっては特別な日なんだろうと思う。

さぁ、行って来よう。

そうそう、義父がさっき寿司を取りに行く時、一緒に行くと。

町内の祭りの飾り付けを見たいんだそう。







全体という存在 ②

2012-07-23 14:19:32 | 言葉
ヨハネの福音書の、一章一節に

「初めに言葉ありき、 言葉は神と共にありき、 言葉は神であった」という文があるらしい。

ここでいう言葉とは日本語のことだ、という見解が載っていた本を読んだことがある。

なんという本だったのか、誰が作者だったのかも憶えていない。

へー、そういう考えもあるのか、とその時は思った。

そんな馬鹿な、ともちらっと思った。

その当時より今は日本語の凄さを常々感じているので、

その線で考えてみると・・・

特にこの言葉・・「一体全体どうしたの?」と「なる」。

一つの現象を見聞きして「どうしたの?」「どうしたんだろう?」という疑問を発することがある。

その語の前に「いったい」が付くこともある。

一つの現象に対して「“一体全体”どうしたんだろう?」という言葉が在るということに驚く。

その現象が全体の一部分だということをこの言葉は知っているかのようだ。

「初めに言葉が在った。言葉は神と共に在った。言葉は神で在った。」

そして「神」はヘブライ語で「全てのものに私はなる」という意味だという。

日本には言霊という考えがある。

言葉に神が宿るというように古代の人は思っていたよう。

他の国の言葉を知らないので、比較して言うことは私にはできないけど、

「どうしたのか?」に何故“一体全体”が付くのか???

どうして日本語にこういう表現が在るのか???

どうしたの? は どうなっているの? でもあるかもしれない。

なる のは なるべくしてなる。

生る・成る・為る・鳴る・という字が在る “なる”

生る は生まれる。生まれるには生まれるだけのわけがある。

成る は成り立つ。成り立つは出来上がる。

為る は行為する。行為は前段階の意識から起こる。

全部プロセスを窺わせる言葉だ。

「どんな」の な、「こんな」の な、

「そうなの」の な、「それなら」の な、

「なるたけ」の なる、「なるほど」の なる、

「こなれる」の な、「なれずし」の な、

「なれる」の な・・・

語源は一つのように勝手に思う。まぁ、思うのはいつだって勝手なもんだ。

神とは生命・・そんな気もする。

全然起承転結してない文章だけど・・思うが侭書いた。

 

 








「追跡 プロファイラー」

2012-07-22 19:40:07 | テレビを見て
レオナルド・ダ・ビンチのことを昨夜のNHK、BS「追跡 プロファイラー」でやっていた。

興味深かったのはダ・ビンチの最期の言葉?だったかな、

それが確か、「続いている」だったと思う。

それと、モナリザの絵についても面白かった。筆で線を描いていないという。

全部点描で描かれている。

人間を絵で表現すると、線では描けないものだというのを彼は感じていたんじゃないかと思ったよ。

それと完成品が少ないということ。

「続いている」という言葉も、絵が未完成のものが多かったというのも、

同じことを表わしてしまったのかと思う。

それは生命の在りようと全く同じだ。

いつも途中で、始まりも終わりもないというもの。

展開

2012-07-22 18:12:25 | ひとの幸福
いろいろとここで考えてることを書いてる。

面倒くさい理屈はどうでもいいけど、

ひとは思うがままに人や物に接したらいいなぁと思う。

やるときは考えなんか要らない。それが思いっきり自分らしく生きることだから。

怒ったっていいし、冷たくしたっていいし、

怒鳴ったって、叩いたっていいと思う。

その時々に自分の思うように正直に行動するのが一番いい。

それで、一日の最後にでも、

自分がこんな気持ちでこうしたことがキッカケで、

どういう展開になったか、それを見るだけでいいと思う。

自分がしたこと、それがどういう展開に繋がったか、

そこをしっかり観察するだけでいいと思う。

どんなことも、こういう気持ちでこうしたら、自分や周りやどう“なった”か、

その時だけにその展開が現われるわけではないけれど。


観察とは、どう“なっているか”それを見ること。


どんなことでも本当に誰もがその時その時、思うがまま行動したらいいと思う。

迷ったっていい、迷ったことがキッカケでどういう展開になったか、

それを観るだけでいい。何もしようとしなくていい。

ただ、観察しなければ、

昨日や一昨日、過去と同じ現象が続くだけだ。

勿論それだっていけないことじゃない。

何をするのもしないのも自由だから。人は誰でも。