駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

駅前糸脈解題

2009年09月06日 | ご挨拶
 ブログを書き出して一年八ヶ月、最近は生活の一部になった。たいてい朝の始業前に書くのだが、推敲する時間がなく、しばしば乱暴な表現が出てくる。後で修正しているのだが、読み返してはいただけないだろう。まあ、趣旨に変わりはない。 
 当初は仕事のこともあるし何処かの誰かで始めたのだが、最近はそのために品位が落ちていないかと多少懸念している。何とか踏み留まれているだろうか。
 この半年くらいか、政治関連のことをしばしば書くようになった。自分でも驚いているのだが、年を取っていろいろな興味が薄れていく中、政治への関心はむしろ増してきた。最近は碁将棋サッカーテニスの番組に負けずBSやCSの政治関連の番組を見ている。ひょっとしてこれは次世代にいくらかでも良い世界を残したいという無意識の老いのなせる技かもしれない。そうとすれば多少の政治的脱線もやむを得ないかと考えている。政治的発言は宗旨の違う方に拒否反応が出るかもしれないが、頑迷な積もりはなく、広く自由な方向を目指している気持ちだ。
 本も新聞の書評やブログに刺激され時々読んでいるが読む速度が落ちた。ことに理科系の本は遅々として進まない、理解力も落ちているのだ。
 多少の変節というより変遷の顛末を記して、いつまで続くかこれからも書く積もりなのを表明しておきたい。
 
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しっくりとしないこと

2009年09月06日 | 小考
 わかるとはどういうことか。どうも理解できたようで、しっくり分かった気がしないことがいくつかある。その一つが背理法だ。なんだかどこか微かにしっくりこない。証明法に松竹梅などないはずなのだが、背理法というのはどうも梅の感じがしてしまう。適当な例になるかどうかわからないが、これは私の財布で、日本のお金が入っています、一万円以上入っているかどうか調べてくださいと聞かれたとする。一万円以下しか入っていないことが財布を開けないで証明できた。では一万円以上入っているのですねと迫られてももう一つ自信が湧いてこないのだ。もっとすっきりしないのは一万円以下だとすると矛盾がでてくる、だから一万円以上だと結論づける場合だ。
 こうした感覚が生まれるのは正攻法がよい方法だと教え込まれていることと、それ以外の場合は絶対ないという前提がどうも日常感覚にそぐわないためだろう。普段の生活ではこれだけですと言われても、まだ何かあるのではないかと点検したり追求したりすると何か出てくることがある。財布を忘れてもポケットをひっくり返せば電車賃くらいは出てくることが多い。
 例外的にアリバイは(これも背理法の一種)は比較的すっきり納得できる。亡くなった人にはもう会えないのを、後悔と共に思い知ることが多いせいだろうか。
 数学のような厳密で遺漏のない世界で数学的訓練を積んでいれば、背理法でもすっきりと理解できるのだろうが、どうも日常の遺漏や嘘の溢れる世界に生きていると背理法は気持ちよく納得できない。
 飛躍するのだが、否定で思い出すのが、代案もないのに駄目駄目という人達だ。人間社会は多様で可塑性と不確実性があり、相手の案を否定したから自然にもう一つの道が指し示されるというわけではない。背理法よりももっとこうした手法には違和感を感ずる。批評は必須だが非難は優れた代案なくしては空しい負け惜しみに聞こえる。
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