写真はバンザイクリフを訪れた墓参団の人たち。
三ヶ野大典『悲劇のサイパン』には、当時十一歳だった大渕ふくみさんという女性の証言が載っている。
〈私の父母は南洋興発の社員として昭和七年、サイパン島に渡りました。しばらく一家五人の平和な生活が続きましたが、昭和十九年六月からは悪夢のような逃避行でした。
サイパン島は絶対に大丈夫といわれていましたが、米軍上陸後は逃げるのに精いっぱいで、六月の終わりごろは北部の洞くつに逃げこんだものの、食糧も水もなく、まさに生き地獄の毎日でした。
我々一般邦人は、兵隊さんから「絶対に捕虜になるな。舌をかんでも自決せよ。捕虜になれば恥ずかしめを受ける」といわれ、その度に多くの人が自決を急いだのです〉(165ページ)。
大淵さんたち家族は来るはずもない援軍を待って、死ぬことを思いとどまる。米軍が洞くつ近くに来たとき、二歳の妹が泣き出して母親は妹を殺そうと鼻に手を当て、口におしめを詰め込むが、母親はどうしても妹を殺すことができなかった。しかし、その後、食糧探しに出た父親が米軍に撃たれて死に、二歳の妹も最後は餓死してしまう。
米軍の砲火によって兵や民間人が次々と倒れていく。傷ついて動けない兵は毒殺され、あるいは手榴弾で自決を命じられる。兵も民間人も飢えと乾きに苦しみながら島の北端に追いつめられ、マッピ岬で自ら命を絶つ者が続出した。
そういう状況下で、酒に酔い、ろくに指揮も執らない将校や高級参謀の姿があった。中日新聞社会部編『烈日サイパン島』(東京新聞出版局)には、百三十六連隊通信隊の安藤成二兵長の次のような証言が載っている。
米軍の攻撃に追われて仲間とはぐれた安藤兵長は、電信山山ろくのある洞くつにたどり着く。食糧倉庫に利用されていたそこには、あらかた略奪されていたが、夢にまで見た食糧があった。安藤兵長は腹を見たし、乾パンを雑のうに詰め込んだ。
〈「これで当分、ひもじい思いをしなくてもいいなあ」
こう思いながら耳を澄ましたとき、洞くつの奥で声がする。近づくと、ろうそくの灯のもとで数人が車座になってウイスキー、ビールを飲んでいた。どの顔も真っ赤だ。酔っ払ってわめいているものもいる。階級章ははずしているが、明らかに将校たちだった。
安藤はカッと頭に血がのぼった。これまで何度も死線を越えてきた。それも飲まず食わずにである。なのに、この将校たちは何たるざまだ。部下が死にもの狂いで戦っているのに後方で酒盛りしているとは……。
「このヤロー、手前ら、ぶっ殺してやる」
先ほどまで食べ物あさりをしていた兵の一人が近づいた。怒りで顔をまっ赤にして銃を身構えた。ほかの兵らが飛んできて取り押えた。
「オレはいままで何のために戦ってきたのか、多くの戦友は何のために死んでいったのか」
洞くつを後にした安藤は、目の前が真っ暗になった〉(207~208ページ)。
〈サイパンの日本軍を指揮する軍司令部でも将校たちは、よく酒を飲んでは酔っ払った。それが部下の士気をどれほど阻喪させたことか〉と同書は指摘している。そして、横須賀第一特別陸戦隊(唐島部隊)の青木隆治上等兵曹が目にした事例も載せている。地獄谷の電信山北に移動していた軍司令部へ命令受領に来たとき、青木上等兵曹は伝令たちが囁きあっているのを耳にする。
〈「司令部のやつら洞くつから一歩も出ない。出るのは移動するときだけだ。そのときは酒ばかりかつがせやがって。軍刀さえ持とうとしない」
「うん、弾は放っておいても、酒を忘れたら大変だ。これが司令部なんだから」
まさか?青木は半信半疑だった。ところが、洞くつの中から酔っ払いのわめき声が聞こえてきた。
「うーん、武士道とは死ぬこととみつけたり。貴様、そうだろう、なあ」
青木は伝令のしゃべっていたことが本当だと信じずにはおれなかった。
洞くつの辺りには銃もなく、剣もなく、手榴弾だけ腰にぶらさげた兵士がうようよしていた。青木と同じく命令受領にきて待機していたのである。その中にいた一人の下士官がつかつかと歩み寄ると、軍刀を抜き、入口に立ちはだかって怒鳴った。
「国賊ども!」「出て来い!」と、口々に叫んだ。みな、怒りで殺気だっていたのだ。しかし、洞くつの中からは何の反応もなかった〉(208~9ページ)。
青木上等兵曹は十九歳で海軍に志願し、落下傘部隊に選ばれ、太平洋戦争初期にはメナド、チモールに降下して「空の神兵」と讃えられたほどの人物だった。酔った将校たちの様子はその彼をして〈十年にわたる栄光の海軍生活がガラガラと音を立て、足元から崩れていくのを〉覚えさせたという。
サイパン島日本軍司令部の同じ姿は、安田武・福島鑄郎編『記録 自決と玉砕ー皇国に殉じた人々』(新人物往来社)所収の桜井良夫「サイパン島玉砕」という手記にも記されている。桜情報機関長として陸軍少佐の地位にあった桜井氏は、玉砕が間近に迫った七月三日の夜に司令部に行き、酒に酔った高級将校達の姿を目にしている。
〈七月三日夜、私は命令受領の将校と一緒に司令部の洞窟に行ってみた。
参謀肩章をいかめしく揺り動かしながら、高級将校達は酒を飲んだように赤い顔をしていた。
「ともかく今度は、本当に最後の抗拒線なのだから、何が何でも死守してください。此処を破られたら司令部もしびれて終いますからもう逃げる者は構わず叩き斬って下さい。山の上にはたこつぼが沢山掘ってありますから、兵を其処に入れて置いて、敵が接近してきたら刺殺すというようにして下さい」
これが参謀の出した最後の命令だった。
しかし参謀は、敵に飛行機、艦砲、戦車、それに防空壕生活の兵隊が最もおそれる火炎放射器があるという事を知らないのだろうか。穴から穴へ、作戦より酒を毎日呑んで暮らしていたのだろう。
「軍刀を忘れないように注意するんだから、やりきれません」
何時だったか司令部の従兵が話していた事を思い出した。
「なあそうだろう貴様、武士道とは死ぬことと見つけたりだろう、なあオイ!」
だが然し、将校だといっても矢張り死に直面した同じ人間であり、兵達よりも状況を詳細に知っていればこそ、勝算なしと、とうの昔に見限りをつけていたのかも知れない。
その心中は察しないでもないがもう少し真剣さがあって欲しい。もう少し部下を愛して欲しかった。そして、武器をもたない数多くの一般民間人も……。
飢餓と渇に泣き叫んでいる子供達に、一滴の水一片の乾パンでもやってくれるだけの気持ちがあっていいのではなかろうか。
そう思い、酔った高級参謀の姿を目の前に見ていると、余りの情無さに涙が湧いて来てしまった〉(72~3ページ)。
バンザイクリフで身を投じた人たちのことが多く語られるのに比して、軍司令部の高級将校たちのこのような様子が語られることは少ない。いや、かつては生き残った兵士たちによって怒りをもって語られていたのだろうが、彼らが亡くなるにつれて次第に触れられることが少なくなっているのだろう。
その一方で、バンザイクリフの悲劇を、国のために潔く殉じた日本人、貞潔を守り抜いた日本の婦女子という殉国美談に仕立てあげようという動きが出ている。だが、戦争がそのようなきれいごとですまないものであることを、酔った高級将校たちの姿は逆に示している。
桜井氏は少佐という地位にあった分、高級将校たちの心情にも理解を示そうとしている。増援要請を大本営から拒絶され、玉砕=全滅必至という認識が司令部の高級将校たちを絶望感に追いやったのは事実だろう。しかし、たとえそうであっても、前線で戦っている兵や米軍の砲火に追われている民間人のことを思えば、後方で酒盛りをすることが許されるはずがない。
マッピ岬に追いつめられていく兵や民間人の大半は、高級将校たちのこのような姿を想像もしなかっただろう。日本軍のエリートたちの頽廃は根深い。それでもまだ、彼らも最後は自決し、死地に追いやられた。問題は彼らの上にいて、自らは安全な場所で作戦を立案し、指揮していた大本営の参謀たちであり、日本軍の中枢にいた者達や政治家、昭和天皇の責任である。すでに勝算のない戦争を長引かせ、国体護持と自己保身のためにあたら多くの人々を犠牲にしていった彼らの責任と問題が、もっと追及されなければならない。
三ヶ野大典『悲劇のサイパン』には、当時十一歳だった大渕ふくみさんという女性の証言が載っている。
〈私の父母は南洋興発の社員として昭和七年、サイパン島に渡りました。しばらく一家五人の平和な生活が続きましたが、昭和十九年六月からは悪夢のような逃避行でした。
サイパン島は絶対に大丈夫といわれていましたが、米軍上陸後は逃げるのに精いっぱいで、六月の終わりごろは北部の洞くつに逃げこんだものの、食糧も水もなく、まさに生き地獄の毎日でした。
我々一般邦人は、兵隊さんから「絶対に捕虜になるな。舌をかんでも自決せよ。捕虜になれば恥ずかしめを受ける」といわれ、その度に多くの人が自決を急いだのです〉(165ページ)。
大淵さんたち家族は来るはずもない援軍を待って、死ぬことを思いとどまる。米軍が洞くつ近くに来たとき、二歳の妹が泣き出して母親は妹を殺そうと鼻に手を当て、口におしめを詰め込むが、母親はどうしても妹を殺すことができなかった。しかし、その後、食糧探しに出た父親が米軍に撃たれて死に、二歳の妹も最後は餓死してしまう。
米軍の砲火によって兵や民間人が次々と倒れていく。傷ついて動けない兵は毒殺され、あるいは手榴弾で自決を命じられる。兵も民間人も飢えと乾きに苦しみながら島の北端に追いつめられ、マッピ岬で自ら命を絶つ者が続出した。
そういう状況下で、酒に酔い、ろくに指揮も執らない将校や高級参謀の姿があった。中日新聞社会部編『烈日サイパン島』(東京新聞出版局)には、百三十六連隊通信隊の安藤成二兵長の次のような証言が載っている。
米軍の攻撃に追われて仲間とはぐれた安藤兵長は、電信山山ろくのある洞くつにたどり着く。食糧倉庫に利用されていたそこには、あらかた略奪されていたが、夢にまで見た食糧があった。安藤兵長は腹を見たし、乾パンを雑のうに詰め込んだ。
〈「これで当分、ひもじい思いをしなくてもいいなあ」
こう思いながら耳を澄ましたとき、洞くつの奥で声がする。近づくと、ろうそくの灯のもとで数人が車座になってウイスキー、ビールを飲んでいた。どの顔も真っ赤だ。酔っ払ってわめいているものもいる。階級章ははずしているが、明らかに将校たちだった。
安藤はカッと頭に血がのぼった。これまで何度も死線を越えてきた。それも飲まず食わずにである。なのに、この将校たちは何たるざまだ。部下が死にもの狂いで戦っているのに後方で酒盛りしているとは……。
「このヤロー、手前ら、ぶっ殺してやる」
先ほどまで食べ物あさりをしていた兵の一人が近づいた。怒りで顔をまっ赤にして銃を身構えた。ほかの兵らが飛んできて取り押えた。
「オレはいままで何のために戦ってきたのか、多くの戦友は何のために死んでいったのか」
洞くつを後にした安藤は、目の前が真っ暗になった〉(207~208ページ)。
〈サイパンの日本軍を指揮する軍司令部でも将校たちは、よく酒を飲んでは酔っ払った。それが部下の士気をどれほど阻喪させたことか〉と同書は指摘している。そして、横須賀第一特別陸戦隊(唐島部隊)の青木隆治上等兵曹が目にした事例も載せている。地獄谷の電信山北に移動していた軍司令部へ命令受領に来たとき、青木上等兵曹は伝令たちが囁きあっているのを耳にする。
〈「司令部のやつら洞くつから一歩も出ない。出るのは移動するときだけだ。そのときは酒ばかりかつがせやがって。軍刀さえ持とうとしない」
「うん、弾は放っておいても、酒を忘れたら大変だ。これが司令部なんだから」
まさか?青木は半信半疑だった。ところが、洞くつの中から酔っ払いのわめき声が聞こえてきた。
「うーん、武士道とは死ぬこととみつけたり。貴様、そうだろう、なあ」
青木は伝令のしゃべっていたことが本当だと信じずにはおれなかった。
洞くつの辺りには銃もなく、剣もなく、手榴弾だけ腰にぶらさげた兵士がうようよしていた。青木と同じく命令受領にきて待機していたのである。その中にいた一人の下士官がつかつかと歩み寄ると、軍刀を抜き、入口に立ちはだかって怒鳴った。
「国賊ども!」「出て来い!」と、口々に叫んだ。みな、怒りで殺気だっていたのだ。しかし、洞くつの中からは何の反応もなかった〉(208~9ページ)。
青木上等兵曹は十九歳で海軍に志願し、落下傘部隊に選ばれ、太平洋戦争初期にはメナド、チモールに降下して「空の神兵」と讃えられたほどの人物だった。酔った将校たちの様子はその彼をして〈十年にわたる栄光の海軍生活がガラガラと音を立て、足元から崩れていくのを〉覚えさせたという。
サイパン島日本軍司令部の同じ姿は、安田武・福島鑄郎編『記録 自決と玉砕ー皇国に殉じた人々』(新人物往来社)所収の桜井良夫「サイパン島玉砕」という手記にも記されている。桜情報機関長として陸軍少佐の地位にあった桜井氏は、玉砕が間近に迫った七月三日の夜に司令部に行き、酒に酔った高級将校達の姿を目にしている。
〈七月三日夜、私は命令受領の将校と一緒に司令部の洞窟に行ってみた。
参謀肩章をいかめしく揺り動かしながら、高級将校達は酒を飲んだように赤い顔をしていた。
「ともかく今度は、本当に最後の抗拒線なのだから、何が何でも死守してください。此処を破られたら司令部もしびれて終いますからもう逃げる者は構わず叩き斬って下さい。山の上にはたこつぼが沢山掘ってありますから、兵を其処に入れて置いて、敵が接近してきたら刺殺すというようにして下さい」
これが参謀の出した最後の命令だった。
しかし参謀は、敵に飛行機、艦砲、戦車、それに防空壕生活の兵隊が最もおそれる火炎放射器があるという事を知らないのだろうか。穴から穴へ、作戦より酒を毎日呑んで暮らしていたのだろう。
「軍刀を忘れないように注意するんだから、やりきれません」
何時だったか司令部の従兵が話していた事を思い出した。
「なあそうだろう貴様、武士道とは死ぬことと見つけたりだろう、なあオイ!」
だが然し、将校だといっても矢張り死に直面した同じ人間であり、兵達よりも状況を詳細に知っていればこそ、勝算なしと、とうの昔に見限りをつけていたのかも知れない。
その心中は察しないでもないがもう少し真剣さがあって欲しい。もう少し部下を愛して欲しかった。そして、武器をもたない数多くの一般民間人も……。
飢餓と渇に泣き叫んでいる子供達に、一滴の水一片の乾パンでもやってくれるだけの気持ちがあっていいのではなかろうか。
そう思い、酔った高級参謀の姿を目の前に見ていると、余りの情無さに涙が湧いて来てしまった〉(72~3ページ)。
バンザイクリフで身を投じた人たちのことが多く語られるのに比して、軍司令部の高級将校たちのこのような様子が語られることは少ない。いや、かつては生き残った兵士たちによって怒りをもって語られていたのだろうが、彼らが亡くなるにつれて次第に触れられることが少なくなっているのだろう。
その一方で、バンザイクリフの悲劇を、国のために潔く殉じた日本人、貞潔を守り抜いた日本の婦女子という殉国美談に仕立てあげようという動きが出ている。だが、戦争がそのようなきれいごとですまないものであることを、酔った高級将校たちの姿は逆に示している。
桜井氏は少佐という地位にあった分、高級将校たちの心情にも理解を示そうとしている。増援要請を大本営から拒絶され、玉砕=全滅必至という認識が司令部の高級将校たちを絶望感に追いやったのは事実だろう。しかし、たとえそうであっても、前線で戦っている兵や米軍の砲火に追われている民間人のことを思えば、後方で酒盛りをすることが許されるはずがない。
マッピ岬に追いつめられていく兵や民間人の大半は、高級将校たちのこのような姿を想像もしなかっただろう。日本軍のエリートたちの頽廃は根深い。それでもまだ、彼らも最後は自決し、死地に追いやられた。問題は彼らの上にいて、自らは安全な場所で作戦を立案し、指揮していた大本営の参謀たちであり、日本軍の中枢にいた者達や政治家、昭和天皇の責任である。すでに勝算のない戦争を長引かせ、国体護持と自己保身のためにあたら多くの人々を犠牲にしていった彼らの責任と問題が、もっと追及されなければならない。