海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

バンザイクリフ 1

2009-06-29 16:26:26 | 2009年 南洋群島慰霊墓参団
 島内観光の最後として植物園からサイパン島北端のマッピ岬に向かった。戦争中、追いつめられた人々が身を投げた場所である。切り立つ崖に打ち寄せる波、生えている植物がつくる眺めは、摩文仁や万座毛など沖縄の海岸とよく似ている。
 子どもを海に突き落として自らも身を投げる母親の姿を、米軍の記録フィルムで何度か見ているのだが、今は整備・観光地化が進んで、そういう生々しい死の様相を感じるのは難しくなっている。それでも、波の砕ける荒々しい岩肌と海面を見つめていると、ここに身を投げざるを得なかった人たちの恐怖が、その何十分の一であれ伝わってくる。
 三ヶ野大典『悲劇のサイパン』(フットワーク出版社)には「バンザイ岬の集団自殺」としてこう記されている。

〈マッピ岬は標高二百五十メートル。海の手前の断崖の北端は高さ百五十メートルの垂直に切り立った絶壁になっている。マッピ岬の海岸も五十メートル下は太平洋の荒波が岩をかむ断崖だった。
 米軍は捕虜になった日本人や通訳を使ってマッピ岬一帯の日本人に繰り返し投降を呼びかけた。しかし、その呼びかけを振り切って地上に身体をたたきつける者、あるいは海に身を投じる者が続出した。中には投降しようとして日本兵に撃たれる住民もいた。
 悲惨を極めたマッピ岬の日本人の集団自殺のもようを、米軍公刊戦史は次のように伝えている。
「マッピ岬の断崖に追われた女性の一群は、この断崖から〃バンザイ〃を叫びながら百五十メートル下の大地に体をたたきつけた。子供をしっかりと抱きしめながら飛び降りる者もいた。
 マッピ岬の海では、父親が子供たちを刺し殺したり首を絞め、その小さな死体を断崖の上から海中に投げ落とし、自分もすぐ後を追った。
 別の岩の上では、三人の女性が座っていた。彼女らは丁寧に髪をすき、終わると合掌し、それから手をつないで海の中に没した。別の岩の上の民間人の一団は、裸になって海中で身を清めてから衣服をつけ、手榴弾を岩にたたきつけて全員が爆死をとげた」
 投降を呼びかけるマイクの声、岩に砕ける波の音、米軍舟艇のエンジンの響き、その中でさく裂する手榴弾のごう音の中に、多くの日本人の悲惨な自殺が次々と続いた〉(163~164ページ)。

 ギンネム林について書いたところで写真を載せたマッピ山北端の断崖と、この海岸の断崖を米兵たちはスィーサイドクリフ、バンザイクリフと呼んだ。
 サイパン戦と沖縄戦のもう一つの共通点は、島にいた日本軍が中国から移動した部隊であったことだ。日本軍は民間人にも、決して捕虜になるな、と命じ、米軍への恐怖心を煽り立てていた。それが彼ら自身が中国で行った捕虜・民間人への虐殺、虐待体験から来ていることは、多くの人が指摘している。近刊書では國森康弘『証言沖縄戦の日本兵』(岩波書店)がこの点を強調している。
 ぎりぎりまで戦った兵士が最後に投降するのは決して恥ではない。ましてや非戦闘員の民間人は、難民として保護されるべき対象である。そういう国際的な常識を欠き、兵士の命を「一銭五厘」の価値しかないものと軽視し、天皇のために死ぬことを名誉とした日本軍=皇軍の思想、価値観、体質が、民間人にまで普遍化されたこと。それがこのような悲劇をもたらした最大の原因である。

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