認めるということには、容認することと存在を認めることとの違った意味があります。
存在を認めるとは、そういうこともあると事実を知ることで、その先には、容認か放置か拒否か、扱い方の違いも「ある」とみなければ、思想や表現の自由は成り立ちません。
その分かれ道では、それまでの考えや行動を超えた何かを求められることもあります。
そういう場に及んで、過去の呪縛を超える胆力のない国家首脳は、錯乱状態に陥って、国民をより不幸にしていくことになります。
ITビジネスモデルでも、ある民族での成功事例をそのまま持っていって、他の民族に適応を迫ってみても、相手が自ら超えていく気概や努力に欠けている場合には、良い結果を望めるものではありません。