関数に「入れる」ものをなぜ「引数:ひきすう」と呼ぶのか、このあたりが、関数という便利なというよりなくてはならない道具を、付き合いにくいものにしている原因の一つのように思います。
なぜ迷うのか、それはどうやら、はじめに関数をジューサーに見立てたところにも、かかわりがありそうです。
ジューサーは生きものではありませんから、私たちは、それを使うものとして、外側から見ます。
外側から見れば、入れるものはなにか、出てくるものはどんなものかという見方になります。
そこで「入れる」ことと「引く」という呼び方は逆ではないかと、何かそぐわないものを感じてしまうのです。
ここで、逆なのは言葉ではなく、考える身の置き所ではないかと気づきました。
ジューサーを外から見るのではなく、自分がジューサーになったらどうかと思えばよいのです。
道具にはなれないと思うなら、引数を食って返り値を吐き出す化け物でもよいでしょう。
自分に引き入れるのなら、「ひきすう」がピッタリの呼び方になります。
専門用語や現場用語は、それが気に入らないからといって、ほかの言葉にすることはできません。
変えられないなら逆でも仕方がないと思っていたのでは、いつまでもそれが引っ掛かって滑りが悪くなります。
自分がどう感じるかより、生きものでない道具のようなものでも、それになったつもりになれば、案外腑に落ちたような気分になるものでした。
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