添付の写真は1971年(昭和46年)秋の、青山高校の校庭でのひとこま。
レストラン・ガイエンや猪瀬酒店などの写真を探していて、昨夜見つけた一枚です。
1969年、2ヶ月以上に渡ってバリケード封鎖中であった青山高校の校内に機動隊が突入した際に、火炎ビンを投げて立てこもった全共闘委員長(生徒会長でした)が逮捕され、私たちが一年生となった1971年の頃は裁判闘争中でした。
私たちが入学した後も、三里塚の空港反対、あるは空母エンタープライズ寄港阻止を求める学生運動で、私の同期生も含めて現役青高生たちが逮捕・検挙されました。
また沖縄返還協定に反対する新左翼系学生が、毎週のように明治公園(日本青年館の隣)で全国集会を開き、国会に向かってデモ行進。
神宮球場と青山高校の間の道は、デモ隊を制圧しようとする機動隊に埋まり、こん棒で叩かれて血だらけになった学生が校庭に逃げ込んできたり、催涙ガスが教室の中まで流れてきたり。
機動隊員が青山高校の校内を捜索に来て、下校しようとする私たちのカバンを無理矢理開けて点検したので、それに怒った何名かの生徒が機動隊員にくってかかったりと、騒然とした時代でした。
しかし、そのような事態の傍ら、授業とクラブ活動は、それなりに正常に行われていました。
なお、写真に写っているメンバーのうち、二人の三年生が、数ヶ月後に「さらば青高。我々は沖縄へ行く」とビラを配った後に、高校を中退して、本当に沖縄の集団農場に行ってしまったのは衝撃的な思い出です。
普段は、とても穏やかな方々でしたから。
最終的に実刑判決を受けた委員長、そして沖縄へ行ってしまった先輩たち。
皆さん、今はどうされているのでしょうか。
まるで大学のような、大人びた空気が流れていた青高だったという気がしますし、やっぱり幼かったような気もします。
ひとつ間違いないのは、時代の激動の中で、先輩たちは、未熟者なりに自分たちで考え、悩み、議論し、行動していました。
一枚の写真を眺めながら、様々な記憶が蘇ってきました。
レストラン・ガイエンや猪瀬酒店などの写真を探していて、昨夜見つけた一枚です。
1969年、2ヶ月以上に渡ってバリケード封鎖中であった青山高校の校内に機動隊が突入した際に、火炎ビンを投げて立てこもった全共闘委員長(生徒会長でした)が逮捕され、私たちが一年生となった1971年の頃は裁判闘争中でした。
私たちが入学した後も、三里塚の空港反対、あるは空母エンタープライズ寄港阻止を求める学生運動で、私の同期生も含めて現役青高生たちが逮捕・検挙されました。
また沖縄返還協定に反対する新左翼系学生が、毎週のように明治公園(日本青年館の隣)で全国集会を開き、国会に向かってデモ行進。
神宮球場と青山高校の間の道は、デモ隊を制圧しようとする機動隊に埋まり、こん棒で叩かれて血だらけになった学生が校庭に逃げ込んできたり、催涙ガスが教室の中まで流れてきたり。
機動隊員が青山高校の校内を捜索に来て、下校しようとする私たちのカバンを無理矢理開けて点検したので、それに怒った何名かの生徒が機動隊員にくってかかったりと、騒然とした時代でした。
しかし、そのような事態の傍ら、授業とクラブ活動は、それなりに正常に行われていました。
なお、写真に写っているメンバーのうち、二人の三年生が、数ヶ月後に「さらば青高。我々は沖縄へ行く」とビラを配った後に、高校を中退して、本当に沖縄の集団農場に行ってしまったのは衝撃的な思い出です。
普段は、とても穏やかな方々でしたから。
最終的に実刑判決を受けた委員長、そして沖縄へ行ってしまった先輩たち。
皆さん、今はどうされているのでしょうか。
まるで大学のような、大人びた空気が流れていた青高だったという気がしますし、やっぱり幼かったような気もします。
ひとつ間違いないのは、時代の激動の中で、先輩たちは、未熟者なりに自分たちで考え、悩み、議論し、行動していました。
一枚の写真を眺めながら、様々な記憶が蘇ってきました。
本間さんは、青山高校出身で、私より四年先輩にあたる方です。
本間さんが高校三年生だった1969年の秋、ロックアウト中だった青山高校を一人離れて北海道の畜産農家を訪ね、牧場作業に従事したそうです。
学生運動かぶれだった本間さんは、その農場のご主人から「教育は、受けられるときに受けなさい」と諭され、東京に戻り受験勉強を始めたと。
本間さんのように、高校紛争(生徒は青高闘争と呼んでいました)で、生き方を悩んだ人、あるいはクラブやサークルの活動に没頭した人、粛々と学習を続けた人、様々な先輩方がいらっしゃいました。
私がブログで話題にしたのに合わせるかのように、こんな記事が載るのは、なんとも不思議な気持ちになります。
私が小学生の時代であった、昭和40年代でしたら連日のように学生集会やデモでしょう。
先日、W大学の校友会代議員会(要するにOB会)があり、高校の先生から総長に「早稲田大学の偏差値が最近、東大と離れ慶應にも4~5離されている。なんとかしろ!」という質問(要求?)がありました。
場内4分の3は唖然、4分の1くらいは賛成という雰囲気。
この時は総長珍しく気合いの入った回答をし、懇談会で「総長のご回答に感銘を受けました」とお世辞を言ったら、総長喜んで話が弾みました!
高校の先生も、早稲田大学の価値は入試偏差値だけでないのだよ、例えば気骨のある人間をつくる大学である、とか社長から雑巾がけまでできる人間を育てる大学だ、とか言って教え子の高校生に早稲田進学を進めて欲しいものです。
何せ、合格発表の当日まで、自分の入学先が判らないというのですから、全くひどい制度です。
私の場合は、戸山より青山を志望していたので結果オーライでしたが。
その学校群一期生として、本間さんは青山高校に入学されました。
卒業後は帯広畜産大学(!)に進学し、その後は東大で修士号、アイオワ大学で博士号を取っていらっしゃいます。
高校三年生の牧場での体験が、本当に本間さんにとって転機だったんですね。
それにしても、青山高校から帯広畜産大学に進んだ人がいるとは知りませんでした。
本間さんは筋金入りです。
ところで、MTさん、
総長との会話が弾むとは、希有な体験をされましたね。
(;^_^A