1977年は、甲子園球児ら、有望新人の大量入部が話題になった年でもありました。
中村政治(投手、PL学園)
黒田光弘(投手、小山)
山岡長英(捕手、秋田高)
応武篤良(捕手、崇徳)
片桐幸宏(内野手、桜美林)
新田泰士(内野手、天理)
佐藤功(外野手、東海大相模)
写真は、現在の監督さんに敬意を表して、応武さんの若き日の一枚をご紹介します。
中村政治(投手、PL学園)
黒田光弘(投手、小山)
山岡長英(捕手、秋田高)
応武篤良(捕手、崇徳)
片桐幸宏(内野手、桜美林)
新田泰士(内野手、天理)
佐藤功(外野手、東海大相模)
写真は、現在の監督さんに敬意を表して、応武さんの若き日の一枚をご紹介します。
道方投手の黙々と投げる姿が印象的でした、春5勝秋4勝を上げました
秋の法政2回戦での三枝選手(PL学園)のスクイズです
延長10回表、江川投手の頭付近の投球に逃げる事なく見事にスクイズを決めて決勝点を上げました
佐藤選手は春の早慶戦では17塁打(本塁打3本他)という脅威的な記録を樹立しました
誉田さんは始めは外野手でしたが体格の良さと強肩から投手に転向、よく対江川練習で指名されて、リーグ戦でも投げる
ようになりました。そして卒業後私の母校福島の磐城高に赴任したときは大変嬉しくなりその練習も観に行き、生徒に人気があるのがわかりました。残念ながら
甲子園にでることなく磐城をさり他の県内の高校を何校か赴任し今は野球から離れているようですが、郡山高校で指導した選手が昨年まで東海大野球部の監督を
した伊藤さんで、東伏見のオープン戦で
私が話しかけたら「こちらの大学をでた
誉田さんは私の恩師です」と言ってました。石山監督の、「誉田投げろ」という
指示は今でもよく覚えています。
結構人気があったと思います。昨年の祝勝会で少し話したのですがいかにも会津のよさが残っている朴訥な人でした。
このあとしばらくしてから安積高校からは左腕の滝口投手がでています。
島貫選手は、巨人でプレーし、現在は運送会社の社長さんです。
今もハンサムです。
やはり背負うものが半端ではないですから。
かつて、当時の主将で四番打者だった比嘉くんがオープン戦で結果を出せなかった日がありました。
その日の夕方、部員全員の前で、野村監督は『比嘉! 早稲田の主将は、他の大学の主将とは違うんだ。そして早稲田の四番は、他の大学の四番とは違うんだ。』
『選手同士のかけ声もかき消される早慶戦の大舞台で、ぐっと気持ちを集中して結果を出すのが、お前の役割だ』
『それが、オープン戦ごときで不安げな表情を見せて、それで早稲田の主将が、早稲田の四番が務まるか!』
野村さんの声はネット裏までビンビンと響き渡り、試合後まで残って雑談していた私たち一般ファンまで叱られているような気持ちになって、みんな下を向いてしまいました。
飛田先生の時代から、早稲田は精神野球。
だから、主将を拝命することも大変なことですが、それをやりとげることも、並大抵の苦労ではないと思います。
相当な人物でなければ、とても務まりません。
今年の夏、応武さんのチェコ遠征中、東伏見には、徳武さん(1965年度主将、元スワローズ)が連日おみえになっていました。
この夏の紅白戦で、ある一年生外野手が守備につく際、ショートあたりまで走り、そこから歩いてレフトの定位置に向かいました。
それを見た徳武さんは、全員が集合した際に『その程度の気持ちで取り組むならば、明日から来なくていい。伝統ある早稲田の野球部に、そんな奴は要らない』と、全国にその名を知られた一年生を厳しく指導されました。
色々なご意見があろうかと思いますが、それが早稲田の野球部の伝統、早稲田の心意気であり誇りなのだろうと私は思いました。
そのような練習を四年間頑張り抜いてきた男だからこそ、卒業後も社会から一目置かれるのでしょう。
現役部員の皆さん、
大変でしょうが、頑張ってください。
学生時代の濃密な四年間は、二度と味わうことのできないものなのですから。
20年終戦、結局18年から20年の間リーグ戦が中止になり
21年5月リーグ戦が復活します。21年度の36代主将は岡本さんです。さすがに20年度は主将は置いていません。
ところでay1881さんの話にでてくる徳武さんは50代主将です。やはり強い早稲田精神の持ち主ですね。
永遠に早稲田野球部が続くことを願います。
練習に復帰してシートノック開始で捕手が三塁に投げるのですが、レギュラーの山倉捕手が、どうぞと加古に順番をゆずったことがありました。その山倉捕手も
レギュラー練習に入ったときは三塁に
力が入りとんでもない高い球を投げ「力を抜け」と言われたり、応武同期の強肩山岡捕手は最初練習に入ったとき三塁に
届きませんでした。あのシートノックが
選手にとっていかに緊張するかがわかりました。