咲とその夫

 思いもよらず認知症になった「咲」の介護、その合間にグラウンド・ゴルフを。
 週末にはちょこっと競馬も。
 

今週の追っかけ馬(9月19日)

2011-09-16 22:24:00 | スポーツ
 先週あたりから、連日の夏日には体力を消耗させられる毎日であるが、その暑い最中の昨日も午後から畑に出向き、ミニ耕耘機で耕して大根などの種まき作業・・・夕方にはバテ、バテで我が家に帰ってきた。大量の飲み物で大汗も出るが、お腹の中はチャポン、チャポンと音でも出そうなくらいであった。

 本当に暑い、かないまへんなー・・・

 プロ野球の方、日ハムの梨田昌孝監督が今季限りで監督を退任すると、東京ドーム今季最後の試合前に記者会見・・・惜しいね。もっと、もっと監督を続けてもらいたかった。

 この日、ロッテとの3連戦の最終日。選手たちが奮起し2-0で勝利しロッテ戦に3連勝・・・やったね


 ところで、今週の中央競馬は例年のとおり3日間開催。連休初日の土曜日は、中山・札幌競馬、2日目は、中山・阪神競馬、3日目は、阪神・札幌競馬となっている。

 秋競馬スタート時の今週もトライアルレースが真っ盛り、今週は菊花賞トライアルの「セントライト記念」、秋華賞トライアルの「ローズS」が組まれている。

 「セントライト記念」には、次週の「神戸新聞杯」でオルフェーヴルとの対戦を回避したペルシャザールやサダムパテックなどが出走するとのこと。一方、「ローズS」には、オークス馬・エリンコート、桜花賞1、2着馬・マルセリーナ、ホエールキャプチャなどの有力どころも出走し、興味も尽きないレースとなりそうである。

 
[月曜日の追っかけ馬]
阪神10レースにミキノバンジョーが出走。
 前走、再昇級の準オープン戦では、前々走のレースぶりから2番人気に支持されての出走であった。好スタートと共に終始番手追走で4コーナーから直線に向いたが、向正面では口を割っているようにも見え、力んでいたのかも・・・・。

 最後の直線も200mを切ったあたりから、エクスペディションが難なく抜け出し、ミキノバンジョーのうちからワルキューレ、外からエイシンサクセスがやって来た。ところが、肝心のミキノバンジョーの脚が上がってきた・・・。

 結局、0秒7差の4着に沈んでしまった。

 今回は、阪神コースのマイル戦、阪神コース1-1-0-0、マイル戦1-0-0-0とコース距離とも好相性であるから、あとは仕上がり如何と相手関係であろう。

 準オープン戦の戦績は、7着、9着、10着、そして再昇級戦の4着であるが、乗り慣れている鞍上の太宰啓介騎手・・・そろそろ、オープン入りを目指して大胆な騎乗をお願い。コース、距離とも相性がいい今回は、チャンス到来とのプラス思考で

 
 ところで、来週はいよいよ三冠への始動となるオルフェーヴルが、夏をクリアして神戸新聞杯に出走してくる・・・どのように成長しているのか、ワクワクしながら待っていたい。


(阪神競馬場・・・パドック)

 参考資料:サンスポ、大スポ、JRA-VAN NEXT他

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真田一族 戦国最強の絆・・・歴史秘話ヒストリア

2011-09-16 22:23:35 | レビュー
 毎週水曜日に放送されるNHK「歴史秘話ヒストリア」を楽しみにしているが、14日(水)は大好きな真田一族の絆の深さに関する話であった。

 兄信之と弟幸村の父である真田昌幸は、海野一族から真田家を興した真田幸隆の3男である。小豪族の幸隆は、その周りの諏訪頼重や村上義清などとの争いに敗れ信濃国小県から逃れた。その後、武田晴信(信玄)の配下となって再起を誓った。
 幸隆は得意の調略を用いて遂に難攻不落の戸石城を落すなど多くの活躍をし、武田軍が目の上のコブであった村上軍を敗り、真田の所領が安堵されることとなった。

 幸隆が武田の家臣となった際に3男の昌幸は、子供(7歳)ながら武田家に人質として出される。ところが、晴信(信玄)はそのうち昌幸を見込んで小姓に、そして家臣へと取り立てる。当の昌幸は、晴信(信玄)の近習として仕えるなかで、その戦ぶりとか、優れた武田軍団の強さには、忍びを組織的に使っていることなど・・・このような知略を学び、そのことが、後に真田家の当主となった昌幸に生かされる。

 昌幸は、武藤家の養子となるが、二人の兄が戦死することで再び真田家に戻り、家督を継ぐこととなる。武田の家臣として父・幸隆亡きあと活躍するが、晴信(信玄)の死後武田勝頼の代に織田・徳川軍との戦で武田家は滅亡・・・。

 沼田から上田の地を所領にしている真田昌幸は智謀・知略の一切を駆使しながら、徳川、上杉、豊臣へと主(あるじ)をうまく代えながら、自らの国を守ろうとするその姿に「比興の者」と評されていた。


(出典:NHK公式HP 抜粋)

 沼田の地を守るために徳川軍と第一次上田合戦が勃発し、巨大な徳川軍を打ち破り豊臣秀吉の仲介もあって沼田城などが安堵される。なお、昌幸の長男信之(関ヶ原までは・・信幸)は、徳川家の人質から家臣へそして徳川の重臣・本多忠勝の娘小松姫を嫁とる。なお、小松姫は、一旦家康の養女となって後に信之に嫁ぐ。

 一方、次男の幸村(信繁)は、豊臣家の人質(第一次上田合戦前は上杉家の人質)となるが、有能さが認められ大谷吉継の娘を正室に迎えることとなった。

 ところが、秀吉が亡くなった後、天下分け目の関ヶ原の戦が起こりその前夜、犬伏の陣で真田昌幸・信之・幸村親子は、父昌幸と次男幸村が豊臣へ、長男信之は徳川へと袂を分かつこととなった。

 その後、上田城に戻った昌幸・幸村親子は、徳川秀忠軍を上田城に引き付けて関ヶ原の戦いに遅延させる第二次上田合戦となり、再び徳川軍を敗退させる。しかし、秀忠軍不在の徳川家康に西軍の石田三成が敗れたことで、二度にわたって徳川軍を敗った昌幸・幸村親子の命も危うくなった。

 長男・信之の懸命の懇願などにより昌幸・幸村親子は高野山に配流され、不自由な生活を強いられる。

 その後、波乱万丈の生き様であった昌幸が没し、その2年後大阪の陣が勃発し幸村は大阪に入城する。大阪冬の陣では、父・昌幸譲りの大活躍をするが、徳川にうまく言い含められた豊臣が徳川と和睦する。

 その翌年、再び大阪夏の陣となって幸村はあと一歩のところまで家康を追い詰めるも力尽き、安居神社の境内で自刃する・・・後に「日本一の兵」と呼ばれる。

 徳川政権になった後、真田の家名を後世に継ぐという父・昌幸との約束を懸命に守ろうと信之は、93歳で没するまで幕府・徳川家から家名断絶への様々な謀略に毅然と立ち向かっていった・・・二代将軍秀忠、三代将軍家光なども亡くなると、やっと真田家取り潰しの陰謀もなくなったらしい。

 なお、関ヶ原以後、真田の所領であった上田の地を召し上げられ、松代に移封されるが家名は明治まで引き継がれる・・・これこそが、信之の最大なる功績である。

 戦国時代の弱小の真田一族が、巨大な上杉、武田、徳川、北条、織田、豊臣などの狭間にありながら、様々な知略を駆使して我が国最後の武家社会・徳川政権末期まで家名を引き継いでいったことは誠に稀有なことである。

 100年以上続いた戦国時代は、小が大に飲み込まれ、さらなる大がそれらを飲み込みながら、多くの武将たちが滅亡していった。その戦国時代も徳川幕府が確立されたことで、戦のない世の中が生まれるようになった。その後300年に亘って、我が国を統一した徳川幕府は、歯向かうものを次々と取り潰しながら政権を維持していく。

 このような時代に生きていた小豪族の真田一族の幸隆、昌幸、信之、幸村たち、死をも恐れない六文銭の旗のもと多くの血を流しながらも最後まで家名を継いだことは、幸隆、昌幸親子の生き様が想像を絶するものであり、それが礎となったからであると思う。

 特に昌幸が将来を見据えたその時、その時の武将としての決断力と知略には、今の時代でも学ぶべき事がたくさんあるのではないだろうか・・・ 

 我が国の政治家諸氏は特にそうであろう・・・。

 昌幸は真田一族の中で、一番好きな人物であるが、これもひとえに池波正太郎著「真田太平記」の影響が甚大であったのかも知れない。

 でも、興味が尽きない一族であることには間違いない。(夫)

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