最近、映画館で見逃していた映画をTV放送(WOWOW)から観ることも多くなっている。さすがに映画館の大きなスクリーンと音響による迫力には及ばないが、それでもデジタル放送のため結構楽しめる・・・。
「幕末の波に
呑み込まれた男たち」
と、キャッチコピーの流れる東映映画「桜田門外ノ変」、2010年10月に封切られた作品
江戸城桜田門と彦根藩上屋敷を始め、安芸広島藩、米沢藩、杵築藩などの藩邸を再現した大掛かりなオープンセット、そこで徳川幕府の大老・井伊直弼襲撃事件を撮影したとのこと。
そのため、時ならぬ大雪となった安政7年3月3日、水戸浪士17名と薩摩藩士1名が加わった「桜田門外ノ変」と呼ばれる幕府大老・井伊直弼襲撃事件について、今までにない圧倒的迫力のもとに映像化された作品である。
何と言っても幕末のかの有名な襲撃事件については、今までこれを決行した水戸浪士側の視点で描かれた映画などはあまり目にしたことがなかった。そのため、この映画を通してペリー来航以来揺れに揺れている日本の行く末を案じながら、多くの名もなき藩士や浪士たちが憂国の徒となって、どのように行動していったかが伺い知れる。
同映画の主人公は、義憤を感じた水戸藩士・関鉄之介(大沢たかお)。そして、鉄之介は、桜田門外において彦根藩主で幕府大老・井伊直弼(伊武雅刀)を討ち取るための襲撃実行部隊の総指揮を任された人物であった。
で、あるから、この襲撃事件をつぶさに見届ける役割であり、なぜこのような行動に至ったのか、その経緯(いきさつ)などが回想されるような手法でこの映画は進められている。
さらに襲撃を首尾よく成し遂げた後、予定通り京へ赴き薩摩藩の決起に加わることとなっていたが、島津家の藩主が亡くなったことで当初の流れが変わっていった。その上、この大事件を計画し実行に関わったすべての水戸浪士に厳罰が下されることとなった。逃亡生活の末の2年後、藩主の命を受けた水戸藩士に捕縛される関鉄之介の悲哀が描かれることに・・・。
自らの信念のもとに決起し、幕末という大きな時代のうねりに埋没して行った水戸浪士たち、それから数年後、ご本家である徳川幕府も瓦解して行く運命に・・・。
最も重い課題を背負って生きていた幕末という時代、どの立場に立っても日本の将来の道筋を何とかしたいと一生懸命に生き、そしていかに死んでいったかが思い知らされる時代であった。
思わず、いい映画であったと・・・ほくそ笑んだ。
丁度、同映画の終了後、これまた幕末の男の中の男・人斬り半次郎の異名を持つ中村半次郎(後の桐野利秋・明治新政府の陸軍少将)を描いた「半次郎」が放送されていた。(夫)

(出典: 2010「桜田門外ノ変」製作委員会)
[追 記]~あらすじ~
安政7年(1860年)2月18日早暁、水戸藩士・関鉄之介(大沢たかお)は、妻・ふさ(長谷川京子)と息子の誠一郎(加藤清史郎)に別れを告げ、故郷から出奔した。同年1月、鉄之介は水戸藩の有志たちと徳川幕府の大老・井伊直弼(伊武雅刀)を討つ盟約を結び、これを実行するため江戸へと向かったのである。大老襲撃は3月3日に決まり、鉄之介を始めとする水戸脱藩士17名と、薩摩藩士・有村次左衛門(坂東巳之助)を加えた襲撃実行部隊18名が集結。そこで計画の立案者で水戸藩尊王攘夷派の指導者・金子孫二郎(柄本明)から、鉄之介は部隊の指揮を執るよう言い渡される。
襲撃当日。品川愛宕山へと集結した鉄之介たちは襲撃地点である桜田門へと向かい、襲撃者の一人が大老の行列に直訴状を差し出す振りをして、行列に斬りかかる。同時に仲間が発砲した短銃の発射音を合図に、斬り合いが始まり、やがて有村が大老の駕篭へ到達、井伊の首を刎ねた。襲撃隊は稲田重蔵(田中要次)が闘死、4人が自刃、8人が自首。その成功を見届けた鉄之介は、京都へと向かう。
計画では大老襲撃は序曲に過ぎず、同時に薩摩藩が挙兵をして京都を制圧、朝廷を幕府から守るはずであった。だが薩摩藩内で挙兵慎重論が持ち上がり、計画は瓦解する。幕府側からは勿論、かつての同胞・水戸藩士からも追われる立場となった鉄之介は、“桜田門外ノ変”に至る歳月を思い返していく……。
安政元年(1854年)のペリー来航以来、鎖国の門戸を開こうとする井伊直弼ら徳川幕府の譜代大名たち。それに異を唱えて尊王攘夷論を押し出した水戸藩主・徳川斉昭(北大路欣也)が対立。やがて井伊が大老に就任したことから、斉昭の一派は失脚。井伊はさらに斉昭に賛同した各藩の藩士、公家を弾圧する“安政の大獄”に手を染めていく。この暴挙を食い止めるため、鉄之介たちは立ち上がったのだったが……。
(出典: 2010「桜田門外ノ変」製作委員会 抜粋)
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「幕末の波に
呑み込まれた男たち」
と、キャッチコピーの流れる東映映画「桜田門外ノ変」、2010年10月に封切られた作品

江戸城桜田門と彦根藩上屋敷を始め、安芸広島藩、米沢藩、杵築藩などの藩邸を再現した大掛かりなオープンセット、そこで徳川幕府の大老・井伊直弼襲撃事件を撮影したとのこと。
そのため、時ならぬ大雪となった安政7年3月3日、水戸浪士17名と薩摩藩士1名が加わった「桜田門外ノ変」と呼ばれる幕府大老・井伊直弼襲撃事件について、今までにない圧倒的迫力のもとに映像化された作品である。

何と言っても幕末のかの有名な襲撃事件については、今までこれを決行した水戸浪士側の視点で描かれた映画などはあまり目にしたことがなかった。そのため、この映画を通してペリー来航以来揺れに揺れている日本の行く末を案じながら、多くの名もなき藩士や浪士たちが憂国の徒となって、どのように行動していったかが伺い知れる。
同映画の主人公は、義憤を感じた水戸藩士・関鉄之介(大沢たかお)。そして、鉄之介は、桜田門外において彦根藩主で幕府大老・井伊直弼(伊武雅刀)を討ち取るための襲撃実行部隊の総指揮を任された人物であった。

で、あるから、この襲撃事件をつぶさに見届ける役割であり、なぜこのような行動に至ったのか、その経緯(いきさつ)などが回想されるような手法でこの映画は進められている。
さらに襲撃を首尾よく成し遂げた後、予定通り京へ赴き薩摩藩の決起に加わることとなっていたが、島津家の藩主が亡くなったことで当初の流れが変わっていった。その上、この大事件を計画し実行に関わったすべての水戸浪士に厳罰が下されることとなった。逃亡生活の末の2年後、藩主の命を受けた水戸藩士に捕縛される関鉄之介の悲哀が描かれることに・・・。
自らの信念のもとに決起し、幕末という大きな時代のうねりに埋没して行った水戸浪士たち、それから数年後、ご本家である徳川幕府も瓦解して行く運命に・・・。

最も重い課題を背負って生きていた幕末という時代、どの立場に立っても日本の将来の道筋を何とかしたいと一生懸命に生き、そしていかに死んでいったかが思い知らされる時代であった。
思わず、いい映画であったと・・・ほくそ笑んだ。

丁度、同映画の終了後、これまた幕末の男の中の男・人斬り半次郎の異名を持つ中村半次郎(後の桐野利秋・明治新政府の陸軍少将)を描いた「半次郎」が放送されていた。(夫)

(出典: 2010「桜田門外ノ変」製作委員会)
[追 記]~あらすじ~
安政7年(1860年)2月18日早暁、水戸藩士・関鉄之介(大沢たかお)は、妻・ふさ(長谷川京子)と息子の誠一郎(加藤清史郎)に別れを告げ、故郷から出奔した。同年1月、鉄之介は水戸藩の有志たちと徳川幕府の大老・井伊直弼(伊武雅刀)を討つ盟約を結び、これを実行するため江戸へと向かったのである。大老襲撃は3月3日に決まり、鉄之介を始めとする水戸脱藩士17名と、薩摩藩士・有村次左衛門(坂東巳之助)を加えた襲撃実行部隊18名が集結。そこで計画の立案者で水戸藩尊王攘夷派の指導者・金子孫二郎(柄本明)から、鉄之介は部隊の指揮を執るよう言い渡される。
襲撃当日。品川愛宕山へと集結した鉄之介たちは襲撃地点である桜田門へと向かい、襲撃者の一人が大老の行列に直訴状を差し出す振りをして、行列に斬りかかる。同時に仲間が発砲した短銃の発射音を合図に、斬り合いが始まり、やがて有村が大老の駕篭へ到達、井伊の首を刎ねた。襲撃隊は稲田重蔵(田中要次)が闘死、4人が自刃、8人が自首。その成功を見届けた鉄之介は、京都へと向かう。
計画では大老襲撃は序曲に過ぎず、同時に薩摩藩が挙兵をして京都を制圧、朝廷を幕府から守るはずであった。だが薩摩藩内で挙兵慎重論が持ち上がり、計画は瓦解する。幕府側からは勿論、かつての同胞・水戸藩士からも追われる立場となった鉄之介は、“桜田門外ノ変”に至る歳月を思い返していく……。
安政元年(1854年)のペリー来航以来、鎖国の門戸を開こうとする井伊直弼ら徳川幕府の譜代大名たち。それに異を唱えて尊王攘夷論を押し出した水戸藩主・徳川斉昭(北大路欣也)が対立。やがて井伊が大老に就任したことから、斉昭の一派は失脚。井伊はさらに斉昭に賛同した各藩の藩士、公家を弾圧する“安政の大獄”に手を染めていく。この暴挙を食い止めるため、鉄之介たちは立ち上がったのだったが……。
(出典: 2010「桜田門外ノ変」製作委員会 抜粋)

