土曜の夜半から体調を崩していたが、やっと持ち直してきた。それでも時折、胃の方がシクシクと痛むことがある。
若い頃と違って、日1日と年齢を重ね未知の領域へ足を踏み入れているこの頃、わずかでも体調を崩すと治りも年々遅くなってくるから、気を付けなくてはならない・・・と、寝込んで初めて考えるようになる。健康な時には気づかないもの・・・。
さて、ローカル紙の読者投稿欄に日頃から思っていることを整理して投稿しているが、先日も投稿したところ16日の新聞に掲載されていた。400字以内の短い文体の中に何とか言いたいことを書き込みメールで投稿しているが、今回は「身内に敬語とは変な世の中」とのタイトルで投稿した。
テレビを見ていると身内に対して「○○をしてあげたい。してあげた」と話している場面をよく見かけることがある。我が家では「何と愚かな、言葉遣いがどこか間違っているね」と、言いながら見ていることが多かった。
妙なところに敬語を使っている場面には、ちょくちょくと出くわすこともあって、このようなことを投稿欄に出してみようと思い立ったところである。
朝食を摂りながら新聞を見ていたら、当方の記事が掲載されており何度か読み返していた。その後、ゆっくりとしていたら電話が掛かってきた。
突然の電話、「新聞の投稿欄を読んで、全く同感なものでどうしても電話を掛けたくなり、突然お電話をしましたわ」と、電話の向こうから声がする。いろいろと聞いてみると、話ぶりからご年配の男性の方であり、電話番号を電話局で聞いて、居ても立ってもいられなくて電話を入れたとのこと・・・。
当方にしてみれば、ビックリである。その方がおっしゃるには、「平素からテレビを見ていると、おっしゃる通りの不適切な敬語の使い方に腹立たしく思っており、大変いいことを書いてもらい、全くその通りと思いましたわ。どうしたらいいものでしょうかな」とか、「この間も市役所に行ったら窓口で、これこれの言葉づかいをしており訂正してやりました」などと・・・。
「そうですね。どこかいろいろな場面での教育が間違っているのでしょう」と、答えながらしばらく電話が続いた。
不適切な敬語の使い方には、本来あるべき姿の日本人像である「恥」の文化が廃(すた)れていることの典型であろう。子供の頃から、恥じ入ることを教わり、気働きを教わり育ってきたのが日本人であったと思われるが・・・。
このことを学ぶには、当方が尊敬している池波文学に触れることが近道かも知れないと常日頃思っている。特に「男の系譜」などは手頃かも・・・。
ところで、新聞記事を投稿すると友人、知人たちから「見たよ」、「納得して読んだよ」などのメールを戴くが、今回のように見知らぬ人からの励ましの電話には驚きであった。
また、何か思いついたことを・・・書いてみようかな。(夫)

[追 記]~投稿記事~
最近、テレビを見ていると、どうやら日本語が正しく使えない人たちが多く見受けられる。かといって、当方が正しい日本語を話しているわけではないが、それでも奇異に感じることが多い。
例えば、我が子に対して「○○をしてあげたい。してあげた」と、「○○をしてやりたい。してやった」と、すべきところである。
この「してあげたい」は、飼っている動物に対してもそのように説明している場面が多く見受けられる。さらに、料理番組などでは、材料に対してもバカ丁寧な言葉を使っている料理人もいるから、一体どうなっているのかと思ってしまう。
さらに、正しい日本語を使うべき最近のアナウンサー諸氏も、先ほどの「してあげたい」風な言葉を使っているのにはとても驚く。
言葉の乱れは、日本人が連綿として受け継いできた日本の文化や伝統を軽んじることにもなり、本来あるべき姿の日本人像が失われている。戦後教育の過ちが、ここらにもあるものと思え残念である。
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若い頃と違って、日1日と年齢を重ね未知の領域へ足を踏み入れているこの頃、わずかでも体調を崩すと治りも年々遅くなってくるから、気を付けなくてはならない・・・と、寝込んで初めて考えるようになる。健康な時には気づかないもの・・・。

さて、ローカル紙の読者投稿欄に日頃から思っていることを整理して投稿しているが、先日も投稿したところ16日の新聞に掲載されていた。400字以内の短い文体の中に何とか言いたいことを書き込みメールで投稿しているが、今回は「身内に敬語とは変な世の中」とのタイトルで投稿した。

テレビを見ていると身内に対して「○○をしてあげたい。してあげた」と話している場面をよく見かけることがある。我が家では「何と愚かな、言葉遣いがどこか間違っているね」と、言いながら見ていることが多かった。
妙なところに敬語を使っている場面には、ちょくちょくと出くわすこともあって、このようなことを投稿欄に出してみようと思い立ったところである。

朝食を摂りながら新聞を見ていたら、当方の記事が掲載されており何度か読み返していた。その後、ゆっくりとしていたら電話が掛かってきた。
突然の電話、「新聞の投稿欄を読んで、全く同感なものでどうしても電話を掛けたくなり、突然お電話をしましたわ」と、電話の向こうから声がする。いろいろと聞いてみると、話ぶりからご年配の男性の方であり、電話番号を電話局で聞いて、居ても立ってもいられなくて電話を入れたとのこと・・・。
当方にしてみれば、ビックリである。その方がおっしゃるには、「平素からテレビを見ていると、おっしゃる通りの不適切な敬語の使い方に腹立たしく思っており、大変いいことを書いてもらい、全くその通りと思いましたわ。どうしたらいいものでしょうかな」とか、「この間も市役所に行ったら窓口で、これこれの言葉づかいをしており訂正してやりました」などと・・・。

「そうですね。どこかいろいろな場面での教育が間違っているのでしょう」と、答えながらしばらく電話が続いた。
不適切な敬語の使い方には、本来あるべき姿の日本人像である「恥」の文化が廃(すた)れていることの典型であろう。子供の頃から、恥じ入ることを教わり、気働きを教わり育ってきたのが日本人であったと思われるが・・・。
このことを学ぶには、当方が尊敬している池波文学に触れることが近道かも知れないと常日頃思っている。特に「男の系譜」などは手頃かも・・・。
ところで、新聞記事を投稿すると友人、知人たちから「見たよ」、「納得して読んだよ」などのメールを戴くが、今回のように見知らぬ人からの励ましの電話には驚きであった。

また、何か思いついたことを・・・書いてみようかな。(夫)

[追 記]~投稿記事~
最近、テレビを見ていると、どうやら日本語が正しく使えない人たちが多く見受けられる。かといって、当方が正しい日本語を話しているわけではないが、それでも奇異に感じることが多い。
例えば、我が子に対して「○○をしてあげたい。してあげた」と、「○○をしてやりたい。してやった」と、すべきところである。
この「してあげたい」は、飼っている動物に対してもそのように説明している場面が多く見受けられる。さらに、料理番組などでは、材料に対してもバカ丁寧な言葉を使っている料理人もいるから、一体どうなっているのかと思ってしまう。
さらに、正しい日本語を使うべき最近のアナウンサー諸氏も、先ほどの「してあげたい」風な言葉を使っているのにはとても驚く。
言葉の乱れは、日本人が連綿として受け継いできた日本の文化や伝統を軽んじることにもなり、本来あるべき姿の日本人像が失われている。戦後教育の過ちが、ここらにもあるものと思え残念である。

