科学は人を幸せにするのか?
この問いは1世紀以上前から存在する。
ちなみにわたしはこの答えはYESであることを信じて疑わない。
世間はどうか?
わたしが子供のころは極左の教員が多かったこともあって、何とかして科学は悪なんだと子供に刷り込もうとしているヤツが多かった。
子供の教育を任された教員が
「科学が進歩すると環境も汚染されるし原爆も発明されました。だから科学は悪なんです!」
なんて論調で語るのだ。
当時すでにわたしは科学者か技術屋になりたいとほざくマセガキだった。
だからわたしの将来を否定するようなヤツらの科学に対する持論には耳を傾けることなく大人になった。(大人になった今でもその判断は正しかったと思っている。)
今はどうか?
未だに世論の総意というものは無い気がする。
ただ・・・
新しい世論というのが生まれてきている気がする。
科学が進歩すると人は労働の負担がどんどん軽くなる。
(特に重労働から開放された。)
その結果どうなるか?
古典的なSFでは・・・
機械が人に取って代われば生産性が向上する。
だから人は誰も働かない怠惰な未来が訪れる。
しかしそれは年世代も先のこととしてリアルには受け止められてはこなかった。
経済学の教科書では・・・
機械が人に取って代われば生産性が向上する。
そのかわりその人は失業する。
しかしそれは一次的なことで、職がなくなったその人は人間の労働力が求められている別の職種に転職していく。
よって生産性は向上しつづけ全体最適な状態を維持しつづけることで皆がハッピーになる。
最近の一部の世論では・・・
機械が人に取って代われば生産性が向上する。
そのかわりその人は失業する。
だからプロレタリアートはますます貧乏になり、ブルジョアだけますます金持ちになる。
というリクツを楯に金持ちをひがむ。
この3つめのヤツは誰が言い出したのかは知らん。
(ウワサによるとクルーグマンだとかいうものあるが)
ただこれは今になって突然そこかしこで見るようになった説ではあるが、昔から経済学の教科書ではその話は議論済だ。
では、経済学の教科書に書いてあることとどちらが正しいのか?
・・・わからん。
ただ、経済学の教科書が想定しているほど異分野への転職は容易ではなかったのかもしれないとは思う。
たとえば2007年に不動産バブルをやった国。
昔は引く手数多だった建設作業員の求人は、今やほぼゼロくらい少なかろう。
ではその代わりということで、携帯機器向けのソフト開発が盛んだからといってObjective-CかJAVAができるプログラマー募集と広告したらどうなるだろうか。
その建設作業員が奮起して勉強した後に応募してくるかというと、それはまずない。
異分野への転職の難しさはそういうところにある。
その延長線上でも言えることがある。
はたして大学生の中で将来の職業に役立つことを学んでいる人はいったいどれだけいるのだろうかということだ。
工学部などでは比較的マシな統計結果になりそうな気がする。
だが文科系の一部ではかなり悲惨なことになる学部もあるかもしれない。
全てとはいわないが、(必ずしも直接的に理科系だという意味でなくて)高等教育とは科学技術の発展した世の中でも役にたつものが大勢であってしかるべきだ。
福沢諭吉の「学問のすゝめ」でも、学問とはいっても古文漢文のような役にたたんものではなくてソロバンなど実学をやれと言っているではないか。
でなければ、
「科学は人を幸せにする」
が、しかし
「科学は自分を幸せにしなかった」
ということになりかねない。
わたしは
「科学は人を幸せにするのか?」
という問いに対して答えはYESであることを信じて疑わない。
ただ、「信じる」であって「断言する」ではないこともまた表裏一体だ。
この問いは1世紀以上前から存在する。
ちなみにわたしはこの答えはYESであることを信じて疑わない。
世間はどうか?
わたしが子供のころは極左の教員が多かったこともあって、何とかして科学は悪なんだと子供に刷り込もうとしているヤツが多かった。
子供の教育を任された教員が
「科学が進歩すると環境も汚染されるし原爆も発明されました。だから科学は悪なんです!」
なんて論調で語るのだ。
当時すでにわたしは科学者か技術屋になりたいとほざくマセガキだった。
だからわたしの将来を否定するようなヤツらの科学に対する持論には耳を傾けることなく大人になった。(大人になった今でもその判断は正しかったと思っている。)
今はどうか?
未だに世論の総意というものは無い気がする。
ただ・・・
新しい世論というのが生まれてきている気がする。
科学が進歩すると人は労働の負担がどんどん軽くなる。
(特に重労働から開放された。)
その結果どうなるか?
古典的なSFでは・・・
機械が人に取って代われば生産性が向上する。
だから人は誰も働かない怠惰な未来が訪れる。
しかしそれは年世代も先のこととしてリアルには受け止められてはこなかった。
経済学の教科書では・・・
機械が人に取って代われば生産性が向上する。
そのかわりその人は失業する。
しかしそれは一次的なことで、職がなくなったその人は人間の労働力が求められている別の職種に転職していく。
よって生産性は向上しつづけ全体最適な状態を維持しつづけることで皆がハッピーになる。
最近の一部の世論では・・・
機械が人に取って代われば生産性が向上する。
そのかわりその人は失業する。
だからプロレタリアートはますます貧乏になり、ブルジョアだけますます金持ちになる。
というリクツを楯に金持ちをひがむ。
この3つめのヤツは誰が言い出したのかは知らん。
(ウワサによるとクルーグマンだとかいうものあるが)
ただこれは今になって突然そこかしこで見るようになった説ではあるが、昔から経済学の教科書ではその話は議論済だ。
では、経済学の教科書に書いてあることとどちらが正しいのか?
・・・わからん。
ただ、経済学の教科書が想定しているほど異分野への転職は容易ではなかったのかもしれないとは思う。
たとえば2007年に不動産バブルをやった国。
昔は引く手数多だった建設作業員の求人は、今やほぼゼロくらい少なかろう。
ではその代わりということで、携帯機器向けのソフト開発が盛んだからといってObjective-CかJAVAができるプログラマー募集と広告したらどうなるだろうか。
その建設作業員が奮起して勉強した後に応募してくるかというと、それはまずない。
異分野への転職の難しさはそういうところにある。
その延長線上でも言えることがある。
はたして大学生の中で将来の職業に役立つことを学んでいる人はいったいどれだけいるのだろうかということだ。
工学部などでは比較的マシな統計結果になりそうな気がする。
だが文科系の一部ではかなり悲惨なことになる学部もあるかもしれない。
全てとはいわないが、(必ずしも直接的に理科系だという意味でなくて)高等教育とは科学技術の発展した世の中でも役にたつものが大勢であってしかるべきだ。
福沢諭吉の「学問のすゝめ」でも、学問とはいっても古文漢文のような役にたたんものではなくてソロバンなど実学をやれと言っているではないか。
でなければ、
「科学は人を幸せにする」
が、しかし
「科学は自分を幸せにしなかった」
ということになりかねない。
わたしは
「科学は人を幸せにするのか?」
という問いに対して答えはYESであることを信じて疑わない。
ただ、「信じる」であって「断言する」ではないこともまた表裏一体だ。