葡萄ざんまい
「それでも、人生にイエスと言う」という本は、
フランクル先生が強制収容所から 解放された翌年1946年に
ウィーンの市民大学で行った 三つの連続講演を収めたものです。
<死ぬまでの 一瞬一瞬 すべてに意味がある>と
ロゴセラピーを提唱していた先生は 思いがけず
ご自分の過酷な運命で、その理論を検証することになりました。
先生の 生きる希望は、
もしいつか 解放されたら「収容所の心理学」という講演をすること。
そのための原稿を考えておられたそうです。
幸運にも 生き残り、ミッションを果たせたのです。(最初の聴衆は14人)
生きたまま自由になれて、本当に奇跡です、フランクル先生。
ウクライナ・ロシア・レバノン・イスラエルは もちろん
アジアでも、アフリカでも、街が破壊され
兵士も市民も 害虫のように殺され、
逃げ延びて、病気や飢餓で死ぬ動画を
リビングで毎日 眺めている私。
悲しみ 嘆き 憎しみ 救済を求める声が とめどなく流れます。
そこには 苦痛と恐怖と絶望しか感じられません。
もし私が、家族や愛する人々や 家も財産も仕事も失い
食べる物さえない 寒い日を過ごすとしたら
なんで、YESといえるでしょう、NO!です
誰か戦争を止めて! 私は自由に暮らしたい! と
こんな世界で、生きるのが嫌になっているはず。
一方で・・・
戦場で生じる善意も 友情も 愛情も 恋も 映画で観ます。
収容所で衰弱した人が「私には必要ない、おあがり」と
腹ペコの隣人に パンを差し出して死ぬエピソードや、
ある収容所の所長が 自分の給料で薬を買ってきて囚人に配った
そんな 実話も知りました。
理不尽なことが まかり通る世の中で、
不幸も不運も おびただしく 絶え間ない。
地球上の何億人という人類を構成する
塵のような人間のひとりが、私とあなたで
降りかかる現実から 逃れられません。
肉体が自由を奪われる状況は、戦時下に限りません。
自然災害も 貧困も いじめや犯罪や 事故や難病でも 生じます。
心理療法家は、戦争も理不尽な現実の一つにすぎないととらえて
出来事よりも、本人の気持ちに焦点を当てます。
こころは 死ぬまで自由だから
長生きすることだけに 執着しないで
死ぬまでの瞬間、つまり<今>を どう生きるかに集中する
生きる意味と向き合う人の お手伝いをするということかしら
ロゴセラピーの エリザベートルーカス先生は
「世界の戦争に文句をいい、騒ぎ立てる前に
あなたのリビングで、親しい人とのつながりの中で 平和を築きましょう。
平和は身近なところから始まり、いずれ世界につながります」
これを「平和をつくる力」といいますと
NHKこころの時代で 語っておられて、はっとしました。
<無力で何もできない私>にYESといい、だからこそ
<誰かの笑顔を引き出すには、今日 何をしよう>と考えるのです。
今日は、肋骨のヒビが 咳のたびに痛む叔母に
骨をつくるサプリと、お菓子と蜜柑を郵送しました。
姪である私が 生きているからこそ できることで
私のミッションですね。
「それでも人生にイエスと言う」(V・E・フランクル 春秋社)より
「人間はあらゆることにかかわらず、困窮と死にもかかわらず、
身体的心理的な病気の苦悩にもかかわらず、
また強制収容所の運命の下にあったとしても、
人生にイエスと言うことができるのです。」