私は高校生まで、ブロック塀の内側で暮らした。
学校と寮が渡り廊下でつながっており、この敷地内で現金は要らない。
生活のすべてが、この中で完結した。
小学校低学年の頃、私達はよく校門から外界を眺めた。
正確には、校門の5m先に小さな店があり、
近隣の子供達がアイスクリームを食べている姿を、
羨望のまなざしで見つめていた。
親子連れが通ると、姿が見えなくなるまで目で追った。
たまに 通りがかった中学生が、自転車から降りてきて
「気持ち悪い~」「ばーか、ばっかり!」「クズ人間」
「一生そこから出てくるな」と悪戯の標的にするので
オーム返しで応戦しつつ じわじわと後退した。
漫画「進撃の巨人」で、巨人から塀で守られている人間の村が描かれているが
奴らも、空き缶を投げるが、門扉を乗り越えてまでは侵入しなかった。
もしも敷地内を<安全地帯>だと勘違いしたら、中学卒業後は<恐怖>でしかない。
私が希望と共に卒業できたのは、
何の根拠もなく、信頼できる人がいると期待できたことと
たぶん私達は「クズ人間」ではないだろうと自然に思えたおかげである。
たとえば・・
校長先生の「ライオンズクラブの皆さんにお礼を伝えましょう」の合図で
私達は「ありがとうございます」と一斉にお辞儀した。
どれほどありがたい事なのか、よくわからないままである。
今思えば、
入園料や大型バスのチャーター、お弁当やお菓子の費用負担などに加え、
例会では作業計画を話し合い、貴重な休日の早朝から 荷物を運び込み
園内では、ハイキングシートを設置し、お茶と弁当を配り、
ゴミを片付け 階段で車椅子を持ち上げ、
抱っこして乗物に乗せ、おんぶしてトイレにダッシュするという、
教員のお手伝いも、さぞお疲れだったに違いない。
小学生だから、嬉しさもワクワクも、その場限りだし
不平不満しか言わない輩もいて、本当に申し訳ないけれど、
それでも、その日のオジサン&オジイサン達の姿が
鮮明に浮かぶのは、私はじっと見ていたということで。
初夏の頃には、山の小学生が「蛍」を持参してくれた。
20×20×30cmの大型の木製の虫かごは 寮の各部屋に配られた。
水の器と葉っぱや小枝が入っていて、夜になると私達は大騒ぎした。
谷あいの小学生達が、どうやって たくさんの蛍を集めたか
お手製の虫かごを、どなたが作ったか
昭和40年代の往復路の交通手段がどれほど困難であったか、
想像も及ばなかったけど。
ただ、嬉しかった、そして、すぐに忘れる。
婦人会からお菓子が届けられ、農協から果物が贈られて
女子高校生のお姉さん達が文房具をプレゼントしてくれた。
そのたびに食堂に集合してお礼を言う。
どこの誰だか知らない、一期一会の出会いなのに
ぼんやりと、他者への信頼が育った気がする。
私も地域の大人として誰かを喜ばせるお手伝いをしなくちゃ。