DALAI_KUMA

いかに楽しく人生を過ごすか、これが生きるうえで、もっとも大切なことです。ただし、人に迷惑をかけないこと。

遍歴者の述懐 その2

2012-11-06 15:51:35 | 物語

数奇な運命

83年間の長い人生を振り返るように、先生はゆっくりと切り出した。

「私はね、4歳まで静岡県沼津市にある我入道という漁村で育ったのだよ。父は沼津の旧士族の次男坊だったが、当時は東京で気ままに暮らしていた。その時、たまたま浅草で知り合った女性との間に生まれたのが私だった。1898年、明治31年のことだよ。1895年に日清戦争が終わって、官民ともに浮かれていた時代でね。当時は身分が違うということで、私は生まれてすぐに母親から引き離され、この地の漁師の家に里子に出された。小さかったから乳母が必要だったのだ。」

明治という言葉は、俊一にある種の感慨をもたらした。明治維新が1868年だった。それから富国強兵に努め、日本はひたすら欧米に追い付こうともがいてきた。それは、江戸時代という、鎖国であったがゆえに太平であり、太平であったがゆえに箱庭であった世界から、突然、列強という嵐の中に放りだされ、文明開化という新しい価値観の中で翻弄されていた時代でもあった。ことの是非はさておき、日清戦争の勝利は、箱庭から大陸へと、多くの若者の血をわきたてるには十分なできごとだったのだろう。先生の話には、そんな時代の重みと不思議な明るさがあった。

「5歳になると、私は、沼津の伯父の家に移された。本家を継いでいた伯父はとても厳格でね、質実剛健を絵にかいたような人だった。おかげで、学業もスポーツも人後に落ちることはなかった。母親はいなかったが、祖母がとても優しくしてくれた。両親の愛情を受けなくても、特にぐれずにそれなりに育ったのも、叔父と祖母のおかげだったと思っている。」

「淋しいということはなかったのですか。」と俊一は尋ねた。

「小さい時からそういう境遇だったから、あまり気にならなかったね。ただ、早く自立して、沼津の家を出なきゃ、とずっと思っていた。それが、自分の運命のような気がしていたのだよ。」

こうして先生は、沼津で幼稚園、尋常高等小学校と進み、沼津商業学校に入学した。現在は静岡県立沼津商業高等学校となっているが、当時の沼津商業学校は、先生が生まれた1898年(明治31年)に創立されていた。予科3年、本科2年というのが標準だった。中学校と高等学校が一緒になった専門学校のような位置づけだったと思う。予科で全科目の平均点が95点以上という優秀な成績を収めた先生は、授業料が免除される特待生となって本科に進んだ。そして、加地という校長先生の推薦を得て、三井物産に就職が決まった。三井物産は、1876年に井上馨が創業した総合商社として、三菱商事や住友商事と並んで日本の貿易を牽引していた。やっと沼津から抜け出せる。先生の自立への夢は大きく膨らんでいった。

先生は、小さく目を瞬かせ、遠くを見るようにして言った。「不思議なのだよね。それまで音信不通だった父親が突然やってきて、浅草へ行けと言うのだ。そこで母親が待っていると。」

「初めて会った母親は、小柄だけどとても美しい人だった。ずっとこの時を待っていてくれたのだろうね。私の手を握って離さないのだよ。時はまさに、浅草オペラの流行の頃でね。大正浪漫というか日本のオペラの幕開けの時代だった。二人でオペラを楽しんだ後、駒形『どぜう』を食べに行った。何を話したかあまり覚えていないが、一日中付き合ってくれたね。運命とはいえ、母親っていいなと思ったよ。」

ちょうど、関東大震災の少し前で、

女房もらって  うれしかったが

いつも出てくる  おかずはコロッケ

今日もコロッケ  明日もコロッケ

というオペレッタ「カフェーの夜」の劇中歌「小唄コロッケー」が大ヒットしていた時代でもあった。

 

つづく