修身よりの感化
当時は民間旅客機がなかったので、日本郵船の船でシンガポールへ行き、そこからオランダの船でタンジョンプリオク港に上陸した。この港は、インドネシア第一の都市バタビア(現在のジャカルタ)の表玄関だ。ジャカルタは、もともとヒンズー教徒が4世紀ころに居住地として開いた港町だ。バタビアの名称は、1619年のオランダ東インド会社の設立までさかのぼる。オランダ人の祖先であるドイツの部族Bataviにちなんでこの名称がつけられたという。1942年に日本軍が占領するまで、約300年間、バタビアと呼ばれ続けた。バタビアから汽車に乗り、ジョグジャカルタ、ソロー(スラカルタ)を経て3日かけてスラバヤに着いた。
「あなたは、バイテンゾルグ植物園という名前を知っていますか。」と先生が聞いた。
「いえ、知りません。何ですか、それは」俊一は尋ねた。
「バイテンゾルグ植物園は、1817年に設立された世界最大の熱帯植物園だ。今は、ボゴール植物園と呼ばれている。ジャワに赴任した時、私は最初にここを見学した。実は、現地における私の主な仕事は、オランダ語で書かれた東印度植物栽培書の翻訳だったのだ。そのために、オランダ語とマレー語を習熟する必要があった。」
こうした語学の習得は、先生にいろいろな仕事をもたらした。スマランという港では、日本に砂糖を輸出し、満州や日本から硫安をまたオーストラリアから小麦粉を輸入していた。三井商船を使っていたが、船長を含めて乗組員は言葉が十分に通じなかった。病気や検疫、証明書の発行など問題が起こるたびごとに先生は呼び出されたという。
第一次世界大戦中に、オランダ領インドネシアは中立を保っていたので戦争特需に沸いていた。
「ゴムとか砂糖の農園や工場ではよく儲かっていたのだね。どんどんボーナスを出すので、いろいろな種類の人間が集まってきた。中には悪いやつもいて、特にオランダ人の道徳の乱れはひどいものだった。博打、酒、女、暴力、汚職、薬物なんでもありの感があった。あまりひどいので、高校のオランダ人教師に文句を言った。」
「なんと言ったのですか。」
「ハールレムの英雄という話を聞いたことあるかい。オランダは、土地を増やすために堤防を作って干拓した土地が多い。ある日の夕方、ハンス・ブリンカーという少年が堤防に穴が開いていることを見つけた。周りに誰もいなかったので、少年は穴に手を突っ込んで堤防の決壊を防ごうとした。彼は一晩がんばって国を救ったのだ。この話は日本でも修身(道徳)の教科書に『オランダ魂』という題で載っている有名な話だ。そんな英雄がいるオランダ人が、ジャワで横暴のやり放題をしているのはなぜなのだ、と聞いたのだ。」
「どういう答えが返ってきたのですか。」
「それが傑作でね。あの話は、アメリカの作家メアリ・メイブス・ドッジという人が1865年に書いた『銀のスプーン』という本の中に載っている作り話なのだ。実話ではないのだ。メアリは、オランダに行ったこともなかったらしい。オランダ人の教師は苦笑いしながらこういったよ。『植民地にいるオランダ人を見て、本国のオランダ人を批判しないで欲しい。』と。何事も、よく調べてから判断することが大切だね。」
つづく