オランダ最初の印象
鳥沢晃がジャワからオランダへ移った頃に接触した人物の中に、後藤新平(1857-1929)や大谷光瑞(1876-1948)・松岡静雄(1878-1936)らがいた。いずれも、本業以外に、当時の文化人として特筆すべき活躍をしていた。このような人々から様々な形で支援を得た晃は、まだ二十歳そこそこの若造でありながら稀有な存在だったのかもしれない。意気軒昂として欧州に乗り込んだ当時、かの地も第一次世界大戦が終わり、ようやく復興に向けて歩みだした頃だった。
ロッテルダムは、世界有数の貿易港である。ニューアムステルダム号から下船した晃は、ホテルコーマンに宿をとった。16世紀ころより港として栄えてきたロッテルダムには、日本の名誉領事館があった。早速、ヨング名誉領事に会いに出かけた。彼は世界有数の船会社Van Ommeren社で働いてから、引退後は日本の名誉領事としてオランダと日本の架け橋となっていた。というのも、ヨング氏は、1855年に来日し、長崎出島の海軍伝習所で日本人に蒸気船の運航指導していたからである。この時の一期生として勝麟太郎、二期生として榎本武揚などがいた。また、1866年にドルドレヒトで行われた開陽丸の進水式にも立ち会っていた。この時の日本人留学生には、榎本武陽(釜次郎)、沢太郎左衛門、赤松則良(大三郎)、内田正雄(恒次郎)、田口俊平、津田真道(真一郎)、西周(周助)、伊東玄伯、林研海などそうそうたるメンバーがいた。そんな歴史の生き証人のようなヨング氏も、すでに齢85歳を超えていたが、依然かくしゃくとしていた。
「君は、あの運転手にいくら払ったのかね。」
会社の玄関で晃を迎えたヨング氏は、何か気になったかのように尋ねた。
「運転手に要求された通り、5ギルダー払いました。」
緊張した面持ちで答えた晃に、ヨング氏はこう続けた。
「なんということだ。何も知らない異国人から暴利をむさぼるとは。同じオランダ人として恥ずかしい。申し訳ないことだ。これからは切符を買って電車に乗ってきなさい。」
といって、ポケットから11枚つづりの回数券を取り出して見せた。
晃には、その親切が身に染みてありがたかった。それは、ヨング氏が単に倹約家だったからではない。彼は、ビジネスを立ち上げたばかりの若い晃に対して、心からの忠告をしてくれたのである。
ああ、オランダに来てよかった。この地に悪者はいない。そう、晃はつぶやいた。1920年、年の瀬12月のことだった。
つづく