悪者どもを運んだ船会社
1920年11月30日、ついに晃は、ニューヨークからロッテルダムへ向かうオランダ船籍「ニューアムステルダム号」に乗船した。
2万トンを越える大型客船には400人ほどの乗客がいたが、日本人は晃だけだった。
2年前の1918年に第一次世界大戦が終了し、のんびりとした船旅だった。
十数日かかる航海の慰みに、腕相撲をやろうと提案した。
「おまえのようなチビが勝てるわけがない。」
みながそう言って馬鹿にするのだが、どっこい晃は勝ち続けた。
大きな白人がそろって負けるので、だんだん船中の話題になってきた。
「なぜ、そんなに勝てるのだ。」との質問に、「サンスクリットにいう阿吽の呼吸だよ。」と煙に巻いた。
実際、東洋の神秘的な勝ち方だった。
ちょうどその時、デッキで遊んでいた子供がかけて来た。
一時帰国するチェコスロバキアの家族の一員だった。
「おかあさん、チョコレートちょうだい。」
腕相撲を観戦していた母親が、救命ブイに書かれたNASMという文字を指差して、子供を諭した。
「みてごらん。Never Ask Some Moreって、書いてあるでしょう。もうおねだりしちゃだめです。」
それは、まったくのジョークで、本当は船会社「Netherlands-American Steam Navigation Company」の略称だった。
晃は、思わずオランダ語で口を挟んだ。
「坊や、それは違う。NASMの本当の意味は、Neem Alles Smeerlap Meeだよ。」
どさくさにまぎれて、「悪者を運んだ船会社」と言ったのだ。
とたんに、オランダ人に船長や乗組員が驚愕して騒ぎ出した。彼らは、晃がそれまで英語で会話していたので、てっきりオランダ語を知らないと思っていたのだ。しかも、言った内容に腹を立てていた。
「悪者とは何だ。」船長が怒鳴った。
「その昔、NASMは、オランダからならず者たちを積んで、ジャワやアメリカに運んだ船会社の一つではないか。おかげで植民地では今ひどい目にあっている。もちろん中には日本に蘭学を伝えたように優れた人たちもいて、私はとても尊敬しているのだが。」
そう言い訳をすると、なるほどもっともだと納得をしてくれた。このことは事実だからしかたない。
これには後日談がある。
アムステルダム号がロッテルダムにつくと、どこで聞きつけたのか、当地の新聞記者がやってきた。
取材を受けると、翌日の新聞に「他山の石」と題した晃の記事が載った。
このように、彼が行くところ、決まって楽しい話題が生まれてきた。
得な性分の男である。
つづく