ナポレオンと西郷隆盛
「不屈の意志と強い力、それが人生を変えていく。」
先生はそう言って、片目をつぶってみせた。
「私が三井物産に就職したのは、1917年、19歳の時だった。ちょうど第一世界大戦の真っただ中で、世の中は騒然としていた。そんな中、私が最初に派遣されたのが、中国の上海だった。」
当時、中国は袁世凱を大総統とする中華民国の時代だった。列強は、中国に数多くの租借地を得ており、日本も遅れてその争いに参加していた。1914年に、ドイツとの戦いに勝った日本は、青島を奪取するとともに、翌1915年には対華21か条の要求を突き付けた。このことが、中国の対日運動に火をつけた。一方、ロシアでは、1917年に10月革命が起こっていた。
そんな中、先生はフランス租界にある社宅に住んでいたが、半年後には共同租界四川路にあるイギリス人宣教師の家に下宿し、英語と北京語、上海語を懸命に学んだ。
「私は、会計課に勤務していた。知識に貪欲で、暇さえあれば無我夢中でいろいろなことを学んだ。一日3時間しか眠らなかったボナパルト・ナポレオンを気取って、ひと月に何日も徹夜をして勉強したのだ。特に、銀本位制の上海租界地では、両(中国銀貨)とメキシコ銀貨を併用していたので、イギリス人の為替ブローカーに強い興味を持っていた。」
そういう時、小柄な先生の体躯からは想像できないくらいの熱いエネルギーが感じられた。
「商業高校しか出ていない私の初任給は、月5円だった。大卒の初任給は出身大学によって異なるが、月に25円から40円だった。いくらいい仕事をしても、私の給料が上がることはなかった。悔しかったので、西郷隆盛の『天を相手にせよ』という言葉を思い出して自分を慰めていた。」
「何ですか、西郷隆盛の言葉というのは。」
「はは、少し古い表現かな。西郷隆盛の遺訓だよ。『人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし』というのだよ。まあ、三井物産を相手にせず、天に貸しておく程確かなことはない、という気分かな。」
「含蓄がありますね。私も、人を信じないわけではないのですが、あてにしないようにしています。あてが外れたときに悲しいですから。」
「なるほど。とにかく、自分のエネルギーを吐き出すために、朝は新公園までジョギングをし、夜は上海同文書院で剣道をしていた。それでも、会計事務ではうだつが上がらないと思ったので、商事の実務をさせて欲しいという嘆願書をだした。」
「それで、どうなりました。」
「中国奥地の出張員になってもいいと思っていたのだが、インドネシアへ行けと言われた。ちょうど三井物産が熱帯地産業に投資をしようとしていて、インドネシア第二の都市であるスラバヤというところに支店を作ったばかりだった。そこで、私は、オランダ語、マライ語、スンダ語を勉強することになった。このことが、私の運命の転機となったのだよ。『六根清浄大祓(ろっこんしょうじょうおおはらえ)に曰く、為すところの願いとして成就せずということなし』と言ったところかな。」
だんだんわけがわからなくなってきた。
つづく