ともちの小さなGLOBE

人生は一期一会のLong and winding road。小さな地球儀をめぐる日々をブログにしました。

2008年2月 中東:クエートにて

2009-04-08 22:05:23 | 
クエートはイラク侵攻から立ち直り、この地も建設ラッシュに沸いている。
歴史的にメソポタミア文明のイラク、ペルシャ文明のイランという強国にはさまれた湾岸諸国(通常湾岸諸国は今回訪れた5カ国に、バーレーンを加えた6カ国と言われる)は歴史的にも圧迫されて来たのも事実で、現在経済的に逆転している様相を示しているが、実際は近隣のかつての大国であるイランとイラクには非常に神経を尖らせている状況を感じ取る事が出来る。
事実、今回訪れたいずれの国でも、2月4日にイランが宇宙センターを開設しロケットを打ち上げたニュースは大きく受け止めている事も事実であり、危機感と畏怖を持って注視されていた。
また、湾岸諸国は第1次世界大戦でのオスマントルコ帝国の敗北と同時に西側諸国の大きな支配に屈してきた事実もあり、宗教、政治、周辺危機を織り交ぜると複雑な様相を示している。

一方で高級クルーザーの並ぶクエートのマリーナの景色からは、戦争の傷跡を感じることは出来ないのも事実だ。

この国を取り巻く有事に対する軍備増強、そして建設ラッシュ。
砂嵐に煙る風景には哀愁を感じた。



2008年2月 中東:オマーンにて

2009-04-08 22:03:17 | 
続いて訪れた国はオマーン。
この地でも建設ラッシュに沸いているが、2007年のサイクロン災害の爪あとが痛々しいのも事実。
灌漑設備の乏しい都市ではサイクロン災害は大規模な水害に直結する。
また、石油残量が少ない(サウジ256に対しオマーンが5:単位10億バレル*1)と言われるオマーンが石油脱却事業の一環として郊外での地質改良による農場化を進めている。
*1:BP statistical review of world energy 2003
また、この農場で作られたインゲン豆は工場内で日本語の包装をされ「オマーン産インゲン豆」と表示されて出荷されていた。日本のショッピングセンターでもおそらく目にする事が出来ると思う。
青空の下、畑の中で生のまま食べたインゲン豆はおいしかった。


上述の地質改良によって作られた広大に続くインゲン豆農場を後にしようとすると、そこで働く農民の方から大きな木彫りの仏像を手渡された。仏教徒の日本人ゆえと考えたのであろうが、これからの長旅を考えると有難くもあり辛くもある。真心だけを頂き、オマーンで働く仏教徒のスリランカ人現地スタッフに大切に預かってもらった。

中東貿易の要といて栄えたオマーンの首都マスカットには日本企業も進出している。港に面したオールドマスカットのエキゾチックな小路を歩くと何とも言えない異国情緒を感じた。



2008年2月 中東:カタールにて

2009-04-08 21:59:21 | 
ストイクトなサウジを後にすると、どの国も華やいで見える。
前回のヨルダンもそうだったが、今回のカタールも華やいだ衣装を着た女性達が街の華やかさを彩っている。

カタールは天然ガスの輸出で有名だが、この地も建設ラッシュに沸いている。

街並は綺麗に整備され、沿海部にはドバイのリゾートのような施設も建設されつつある。
面積的には秋田県に等しい狭い国土ゆえ、都市部の再開発による家屋、商店等の生活基盤の移動は大変なようだ。

首都ドーハには古い町並みを復元させたエキゾチックな街並の中でアンティークや周辺諸国の料理を楽しめる場所もあり、訪れたイラク料理店では、暫し料理に舌鼓をうった。


週末の夕刻になると繁華街にはインド、パキスタン、バングラデシュ、フィリピンなどの国々からの天然ガスプラントで働いている出稼ぎ労働者達が、行く当ても無くどっと繰り出してくる。
一部の商店街には彼らが入る事が出来ない施設も存在している。
しかし、一方で基幹産業の主労働力を彼ら出稼ぎ労働者が支えているのも、この国の紛れも無い事実だ。

また、カタールはオリンピック誘致の候補地として名乗りを上げているが、湾岸諸国では実質的に、1月2月のすごし易い時期を除けば、日中の屋外スポーツは非常に過酷な環境になる事を考えると、もし開催されるとなれば冬季五輪と同じ時期、もしくは初の夜間オリンピックとなるのかもしれない。

夜、カタールの友人が砂漠の中で歓迎の宴を催してくれた。荒野で食べるカバブ料理は絶品。ビール片手に食べたいと思うのは切実な心境だったが、ここはモスレムの国ゆえ、それは御法度。
砂漠の中の男性だけのパーティで、ひとしきり世間話に花が咲いた。


2008年2月 中東:サウジアラビアにて

2009-04-08 21:54:26 | 
初春に中近東湾岸5カ国(サウジアラビア、カタール、オマーン、クエート、UAE)を訪ねた。

2年前に訪れた時に比べ原油価格の高騰が産油国にどのような影響を及ぼしているのか興味深い。
今回は写真を織り交ぜて、5カ国に分けてレポートしたい。

初めに訪れたサウジアラビアの印象は2年前と大きな変化を感じなかった。
世界最大の産油国のオイルマネーはどこに行ったのか?
驚くべきほど多人数にあたる王族達に回っているとの話も聞くが、中々定かではない。首都リアドの街並の変化からも他の国に比べて建設ラッシュというキーワードは感じることが出来なかった。
しかし、写真にあるように郊外には週末にベドウィンライフを楽しむ為のレクレーショナルとしてのキャンプ施設が立ち並ぶようになっており、庶民の暮らしにも豊かさが浸透しつつある事も感じ取る事が出来る一面もある。

ただし、サウジには華やかさを感じないのは事実だ。マックやケンタッキーなどのUSファーストフード店も数多いし、立派なショッピングモールもあるのに…やはり宗教の厳格さ故の、外で見る黒尽くめの女性の容姿のなせる業かもしれない。

余談だが道中、移動に使ったベンツがオルタネーターベルトとプーリーの破損によって荒地の中でSTOPした。
通常であれば、かなりの重症でパーツが届いて整備交換が終了するまで数日は待たされると思ったが、なんと当日中に全ての部品交換と整備が終了した。砂漠の国でのベンツのアフターサービス体制には驚く事しきりだ。

かつて車が壊れたら道端に捨てられ、廃車が道路脇に点在するとも言われていたが、これは既に過去のものになっている。

立ち寄ったショールームに面白いものを見つけた。

中国製RVのリムジン…内装はブルーの照明にDVDを置いた応接風だが、運転席はマニュアルミッションのシャビーな感は否めない。

召使が運転する故、運転者には快適さは皆無というところか。おそらく、世界一運転席と後部座席の“格差“がある車両だろう。
しかし、リムジンと言えば名の通った車の改造と思い込んでいたが、誰がこのシャビーリムジンを買うのだろう…!?
オイルマネーは、目立たない形でこの国に小金持ちを生み出しているのかもしれない。


2007年12月 インドシナ:カンボジアにて

2009-04-08 21:35:09 | 
12月初旬、カンボジアを訪れた。

ひさしぶりのアジアだ、夏のインド南部で蚊に刺され、病を患い完治してからも久しい。
いつ来ても西アジア、インドシナは活気に満ちている。
その中でも取り分けカンボジアは、若者の新しい国づくりへの希望を肌で感じる。

また、プノンペンにはロシアンマーケットと呼ばれる巨大な部品市場が存在し、20年前のバイクだろうが走る事が出来る。 写真からもかなり危ない雰囲気がある。


今回訪れたのは、首都プノンペン(Phnom Pengh)を基点にコンポントム「Kampong Thom」シエムリアップ「Siem Reap」、シソポン「Shisophon」、ポイペット「Poipet」、バッタンバン「Battambang」、プルサット「Pursat」コンポンチュナン「Kampong Chnang」のトンレサップ湖をぐるっと回った地域。

カンボジアに入って目につくのは、積極的な日本のODA活動。
日の丸の付いた学校、施設が目につくのは、日本人として嬉しくもあり誇らしくもある。

トンレサップ川に掛かるフレンドシップ橋を渡り、コンポントムへ。

同行した現地スタッフは元UNTACで働いた経験のあるチャンという名の35歳の青年。
道程では路端で売っている蓮の実を食べたりして終始打ち解けた時間を過ごすが、彼にも従兄弟、叔父達をポルポトの虐殺で亡くしたという辛い過去がある。彼自身もジャングルを逃げ回りマラリアを患いながらも一命を取り留めたという。
年寄りが目立たず、二十歳そこそこの若者が多く目立つカンボジアの現実がそこにある。
チャンと食べた蓮の実の味が懐かしい。


カンボジアの高校生の足はバイク。下校時には日本の高校と変わらない賑わいがある。


一方、タイ国境の町ポイペットでは国境にカジノがある風景と2重底の荷押し車が行きかう風景がある。


コンポントムはUNTACボランティアの中田厚仁さんが志半ばにして殺害された地。
彼の名前を多くのカンボジア人が知っている。彼の名をつけた学校もある。ローカルレストランのウエイトレスに聞いても、ジャパニーズのアツと言う答えが返ってきた。
25歳で生涯を閉じた彼の残した言葉にはいつも心をうたれている。

だけれども僕はやる。この世の中に誰かがやらなければならない事がある時、僕は、その誰かになりたい。」

Webには彼に関する記載がいくつも残されている。ぜひ一度御覧になることを薦めたい。
カンボジアでは、UNTAC活動中に、警察官の高田晴行さんも尊い命を落としている。
両名の御冥福を心よりお祈りしたい。

郷愁に浸る中でもアンコールワットの夜景は壮言な美しさを見せていた。


クメールルージュを台頭させたカンボジア混乱の歴史を紐解くと、ベトナム戦争の影がある。
ベトナムへの援助を断ち切る為、USが後押し打ち立てたロン・ノル政権は、シアヌークと共に中国から戻ったポルポトとの内戦に終始したが、ベトナム戦争終結と共に中国に後押しされたクメールルージュが実権を掌握する事になる。
ここに、極端な原始共産思想に基づく都市部からの知識人の移送と反乱を恐れる事による大虐殺が行われた。
最終的には、中ソ対立からソ連と親密だったベトナムがカンボジアとの国境紛争の中から介入し、中越戦争を経てポルポトの率いるクメールルージュを一掃したが、その後、ドイモイ路線により旧退化した社会主義からの脱却を図ったベトナムがカンボジアから撤兵し、UNTACによる平和維持活動が開始され、現在に至る大国の思惑により混迷した歴史がある。
しかし、皮肉な事に結果的にクメールルージュからの開放を行ったベトナムを、多くのカンボジア人は嫌っているのも事実で、その背景には領土問題やフランス植民地時代にフランス人がベトナム人を使ってカンボジアを統治した事による反感が今もって根強いようだ。

先に述べたように、カンボジアでは日本のODA活動が目につくし、日本人に対する感情も非常に良い。しかし、日本企業の進出は政府に比べて大きく目立ったものではなく、中国、韓国の企業の進出が目立っている。
プノンペン近郊には経済特区の工業団地も建設されつつあり、訪れる毎に変化を感じ取る事が出来る。

一方、インフラ整備も充実されつつあるが、シエムリアップからシソポンに続く道はODA援助での道路整備が続く砂埃渦巻く悪路。郊外はかなりの悪路が続く。
また、舗装された道路には速度制限らしきものは無く、100km/hを超える猛スピードで車が行き来する。しかし、道路の住み分けは無く、夜間は自転車に乗った学校帰りの子供達が、この道を往来している。
皮肉にも援助で作られる道路整備による車の高速化から交通事故が相次いでいるのも事実だ。
せめて子供達の自転車に反射板をつける援助を行ってあげたいと考えている。

トンレサップ湖の夕暮れには哀愁を感じた。


光と影が交錯するカンボジア。子供達の未来に輝きがあることを切に願いたい。


2007年2月 西アジア:スリランカ シーギリアにて

2009-04-08 06:11:28 | 
内戦の話題が尽きないスリランカだが、内陸部の美しい景勝地を紹介したい。

訪れたのはスリランカのほぼ中心の内陸部にあるシーギリアと呼ばれる、かつての王の住まい。
この城にも悲しい歴史がある。
父親を暗殺し、王位に付いた王が、異母弟の復讐を恐れ巨大な1枚岩の頂上に宮殿を築いたのがこのシーギリア。
現地の友人ヨハンと一緒に記念撮影:本当に壮大な岩山だ。

岩山の麓にはプールがあり山の頂上との水の循環システムを形成してしていると言う。
麓のプールでは王が美女と戯れていたそうだ。
その美女の写真が下のフレスコ画

宮殿であった岩山を登っていくといたるところに斜面に段を刻んだような歩哨の待機所がある。
歩哨が居眠りをすると落ちるような仕掛けとの事。命がけの居眠りだ。
また、写真の石で支えられた大岩は敵が攻めてきた時に落とす為の物。
かなり強固な守りであった事は間違いない。

シーギリアの頂上から見渡す景色はどこまでも緑が続く壮観な眺め。
しかし、この近くで内戦が行われている事は拭いようの無い事実だ。


素晴らしい自然、人々のいるスリランカ。この国に真の平和が訪れることを願いたい。


2007年2月 西アジア:インド カニャクマリにて

2009-04-07 06:18:07 | 
インド最南端の地、カニャクマリを訪れた。
素晴らしい夕日が見れる地とも言われている。

南端のカニャクマリから西に向かう道程には風力発電の風車も見える。
インドにおいては不思議な光景だ。

漁村にはロングテールと呼ばれる中型の漁船が犇いている姿が見られる。

市場では魚を売る女性達の姿も見られ、活気が見られる。

しかし、この地でも2004年12月にインド洋を襲った津波の爪跡が今でも至る所で見られる。
写真のコンクリート製の橋は吹っ飛ばされて破壊されている。恐ろしいパワーだ。

また、海に浮かぶこの寺院も津波の時に完全に大波に呑まれて多くの参拝者が亡くなった。
現地の友人に見せてもらったビデオ映像にはその様子が事細かに記録されていた。
この島全体が波に呑まれるなど誰が想像できるだろうか?

しかし、悲劇にあった地でもカメラを向けると集まってくる子供達の姿はいつでも純粋で明るかった。


2007年3月 スリランカ内戦

2009-04-07 05:52:33 | 徒然なるままに
2007年3月36日、スリランカの首都コロンボの国際空港に隣接する空軍基地をタミルタイガーが空爆した。死者は3名との事。冥福を祈りたい。
何度も訪れたスリランカであるが、内戦の話はいつも辛い。

20年前にはコロンボ空港での旅客機爆破テロにより多くの日本人が彼らの手により死んだ。
それ以前には、モルディブの首都マレにまで侵攻した彼ら。(この時はインドの空挺部隊により鎮圧されたが…)
タミルタイガーで検索すれば、兵士達の素顔も伝える色々なニュースを見る事が出来る。
内戦やテロの根底にあるイデオロギー。
しかし私は、貧農に金を渡し幼い少女に自爆テロを行わせ要人殺害を謀った彼らの考えを許す事が出来ないし、彼らが、自爆テロを行った善悪の判断も出来ない年端もない少女の写真を家々に飾り崇めさせる姿には吐き気を覚える。

隣接するインドのタミルナド州には、多くのタミル人が住む。しかし一概にタミル人と言っても、カースト文化も複雑に入り組み、タミルタイガーと同一視するものではない。
あくまでもタミルタイガーはスリランカに根ざしている。

しかし、空軍基地まで爆撃する能力を持つ彼らを単なるテロ組織とは呼べないと思う。
彼らの実効支配するスリランカ北部は良い魚場であっても漁もままならず、漁をしようとする漁師からは、臨検で金を徴収する彼ら。空軍基地を爆撃する航空能力に、戦闘用高性能スピードボート。
世界中から資金が集まる結果かもしれないが、憎しみの連鎖は終わろうとしない。

2月に訪れたスリランカでは、ボーダーラインの40km手前の町を訪れた。走り去るバイクに向かって沿道で手を振る人々はシンハラ人、タミル人の区別無く明るかった。
そして、その地での子供達の無垢な笑顔は、今も忘れる事が出来ない。

かつてインド洋の涙と呼ばれたスリランカであるが、この紛争が無ければ西アジアでもNo1の発展が見込める国だと思う。

この国に平和が訪れる事を願ってやまない。


2006年10月 西アジア:インド グジャラットにて

2009-04-06 22:09:23 | 
今回訪ねたのはパキスタン国境に接するインドのグジャラット。

空港を出ると、サウジの郊外のような様相で、およそインドにいる気がしなかったが、州都Porbandar市内に近づくとサリーとパンジャビンドレスの女性。そして人、車、牛も一緒の雑踏に出くわし、インドである事を痛感する。

グジャラット州は禁酒ということで、モスレムの人々が多数を占めると想像していたが、ヒンドゥーの人々も非常に多い。
なぜ禁酒か、訪ねると、GujaratのPorbandarがガンジー生誕の地で、ベジタリアンであり酒も飲まなかった彼に敬意を表してとの事。
グジャラットの漁村は活気に溢れていた。ロブスターが獲れた網を少年が自慢げに見せてくれた。


宿泊したホテルの早朝は何やら、ガサガサした音で目が覚めた。
下の庭のパーティ跡に牛の群れ。野牛が群れで残飯を漁っている光景に遭遇した。
グジャラットでは野犬よりも野牛がはるかに多い。
目の前の海では皆が沐浴している…

ホテルに帰着後、スタッフを交えてミーティングしていると、TVから、いきなりのカーチェイスのようなニュース映像。何事かと尋ねると以下の通り。
インドの首相がケララ州の州立記念日(11月1日)を祝う為、空港に降り立ったが、信じられない事に普通のタクシーに乗ってしまった。
結局そのタクシーを多数のパトカーがチェイスする事になり、道路は大パニック状態。
事情が飲み込めないタクシー運転手は緊張のあまり到着後倒れて入院。ベットに横たわるタクシー運転手の哀れな映像と、怒り心頭の彼の奥さんのコメントが延々と続く。
いずれにせよ、だれも怪我せず良かったわけだが、日本では考えられないニュース。インド人のスタッフも笑いながら「これがケララだからね」の一言。

道程の帰路、ボンベイにトランジット宿泊した。
ボンベイは空から空港を見るとスラム街が空港の壁まで押寄せている。空港からのキャブはエアコン無しの窓全開。信号待ちでは乳飲み子を抱えた少女が殺到して物乞い。財布をトランクのかばんに入れている自分は成すすべも無い。
金が払えないのを見て取ると、こちらの頬を指で触って侮辱の態度、複雑な気持ちだ。
グジャラットのガスステーションでも年の頃で言えば15才ぐらいの綺麗な少女が物乞いをしてきた。裸足の上に質素な身なり…
貧困と言うキーワードは取り分け発展途上国では深刻な意味合いを持つ。
乞食たちを束ねるブローカーの存在や、子供の目を潰し、手足を切りものの哀れを誘い乞食の糧を得ようとする輩の話もあり、暗い影を落としている。
その中の一筋の光明として貧困救済に立ち上がったバングラディシュの経済学者のヤヌス氏。
本年度ノーベル平和賞を得た彼のマイクロクレジットの提唱という功績が発展途上国に普及している現在。テロの根源を見る時、「貧困層の生活改善に対する資源投入は、兵器への出費に勝る戦略だ」と語る氏の姿には痛く感銘した。

貧富の差が極端に大きな発展途上国。貧困と言う現実を見るに付け心が痛むと同時に深く考えさせられるものがある。


2005年9月 中東:ヨルダンにて

2009-04-06 22:00:25 | 
リアドからドバイに戻りそこからヨルダンの首都アンマンに向かった。
ドバイからアンマンまでの移動はゆうに4時間以上かかった。
そしてドバイとの時差は2時間。
イラクやイスラエルを初めとした紛争地体に囲まれるこの国は、安全と言う言葉からは遠い気がしていたが、死海や遺跡などのツアーで有名な、観光地の側面も持っている。
アンマンの空港では中国語が飛び交うおばちゃんツーリストの一団にも遭遇した。

空港から市街までは起伏に富んだ荒涼とした大地が続き、その中からベージュ色の建物が見えると、古来の歴史を感じるような気がした。

現地関係者の話では、この国には四季があり夏は32℃冬は20℃で比較的すごし易いらしい。
町並みや道路はヨーロッパのそれに近く、女性の服装も華やかでサウジを後にした出張者には華やいだ空気を感じさせる。

宿泊したHYATTホテルにはローマ字表示で「IKEBANA-SCHOOL」や日本の某大手商社のミーティング案内を表す表示がされていた。(1ヵ月後このホテルのロビーはテロにより爆破された)
町の活気からもイラク特需を感じさせるものがある。

昼食時に訪れた郊外の中華レストランや、夕食時に招待されたフレンチレストランのメニューには酒類も載っており、禁酒国ではない。人々は大いにワインを楽しんでいる。
夕食時に飲んだワインはアルコールから遠ざかっていた自分には格別な味だった。

空港への車窓には荒涼とした大地とそれに対比する建物が見える。
美しい風景に見とれてシャッターを切ると風景の一角にパレスチナ難民らしい人々が暮らすらしい粗末なキャンプも見えた。


空港のチェックインで、小柄な小学校6年生程に見えるアジア系の少女が、叱られながら召使としてヨルダン人一家の子供の世話をしている姿を見た。
自分の娘の姿ともラップし、複雑な思いをむねに機上の人となった。

US、ヨーロッパ、中部アフリカ諸国、西アジア諸国、そして今回の中近東諸国。
それぞれの異なる文化と価値観。
一般的と思っていた常識が世界に対して如何に懸け離れているかの実感。
この旅を終え、真の意味での「コモンセンス」を基軸にした自己の、思想、行動、を確立する事が、世界を相手にしたビジネスの成就、自己の実現の為には、特に必要であると感じずにはいられなかった。
今回の紀行も人生における1コマに過ぎないかもしれないが、大きなインパクトを自分自身に与えてくれたのは間違いない。


2005年9月 中東:サウジアラビアにて

2009-04-06 21:57:40 | 
UAEのドバイを離れ、サウジアラビアの首都リアドに着いた。
中近東でキングダムと言えばサウジアラビアを指す。
サウジは出張自粛国であるが、空港に降りた第一印象は、近代的な設備の整った美しい国。
水平線は黄色味を帯びており、砂塵が舞う様相を呈している。
空港からホテルに向かう道路も非常に美しく、近代的な国家という印象は拭えない。

内陸に位置するリアドに住む若者の娯楽の一つが4輪駆動のRV車やATVによる巨大な砂山でのエキストリームな登坂チャレンジ。

平均斜度20度以上はある急斜面に向かって車が砂塵を立てて駆け上って行く。
その斜面の途中からハンドルを切ってUターンして行くさまを目の当たりにすると驚きを隠しきれない。
夜になってもヘッドライトを点けてエキストリームなチャレンジは続く。
ヒルクライムの近くでは写真の「空気屋」が、空気圧を落として遊んだ車への空気補給の為に店を開いている。

面白いことに、この地で中国製のハイラックスサーフのコピー車と思しきセーフなる車に出くわした。
留まる事を知らない中華パワーには呆れてしまう。

宗教戒律の厳しいこの国には女性と言うキーワードがアクティブなスポーツには存在しない。
男だけの砂の海でのチャレンジは何を目指すのか。
限界への挑戦、ストイックな日常からの逃避。
しかし、非常にフレンドリーな彼らは、活気に満ちた目を持つ、世界中どこにもいるスポーツを楽しむ普通の好感の持てる若者達だった。
彼らから色々なもてなしを受け、感謝しつつ巨大な砂丘を後にした。

夜、現地関係者の案内でショッピングセンターを訪れた。
酒が無い事、女性が黒装束なのと、御祈りの時間に店がシャッターを下ろす事、そして、アラビア語表示をを除けば、何らUSAのモールと変わらない景色がそこにあった。
実際、日中は暑い為、商店は午後5時ごろからオープンし始める。
まさにスペインのシエスタと同じ。

ショッピングセンターを訪れる人々の表情は、非常に明るく笑顔に満ちていた。
黒装束の女性ティーンエイジャー達が店の前のフロアにしゃがみこみ車座になって雑談している様子は、日本のコンビに前で若者が座って雑談している様子と全く変わりが無く。同行したドバイ在住者と思わず顔を見合わせてしまった。

しかし、セーフティな印象も宿泊先のRadissonホテルに近づくと一変する。
ひとつ隣の政府関係ビルの道路脇に置かれた機関銃陣地、そしてホテル前に設置された自動車テロ防止用のバリケード。
ホテルに一歩入れば、高級ホテルであるにもかかわらず、この状況はこの国の置かれている暗部を的確に表している。
サウド家のアラビア、有り余るオイルマネーによるインフラ整備にもかかわらず、富の一極集中による貧富の差。
サウジのオイルマネーの80%は王族が支配し20%で国家運営がなされているとも聞く。
王族支配のオイルマネーを財政危機から50%にすると決めた首相は翌日に国王から罷免される国。
ダーティーワークはインド、パキスタン等からの出稼ぎ労働者に頼っているにせよ、各種マスコミ、TV番組等から多くの情報が民衆に与えられる事から、富の一極集中に不満を持つ人々が政府と、その関係者に対するテロ行為を行っているのが、この国の暗部か。

富の一極集中を目の当たりにすれば、軍事クーデターによる政権転覆が世界中で引き起こされている事実は単純明快な帰着点かもしれない。

もし、イラクと同じような形で政権転覆が起きたら、テロリストに流れるオイルマネーから、この国はイラク以上の混沌をきたすであろうことは、想像に易しい。
ただ、その石油と言う富があまりに大きい為、国際社会取り分けUSAの箍によって安定は保たれているように感じた。
確かに戒律の厳しい国の中にあっても好むと好まざるに係わらず、各種ファーストフード店やコーラのビルボードを見るにつけUSAの文化はあちこちで見られるのも事実だ。

一方、別の考え方をすれば、イラクの民主化を最も恐れる国の一つが、この国ではないだろうか。
フセインはその生い立ちから、湾岸諸国の国王達には許しがたい物であったろうし、その政権が転覆し、王政ではない状態で国内が混乱する事こそ望むべき姿なのかもしれない。

リヤド郊外では、古びた民族衣装を纏った1人のストリートチルドレンにも出会った。
UAEでは見なかった落書きも裏街角や郊外には多く存在している。
この国でも、さまざまな問題は色々な形で顔を覗かせている。
その一方で見られる若者達の明るい笑顔、活気ある街角。
複雑な思いが胸中に飛来した。


2005年9月 中東:UAEにて

2009-04-06 21:25:03 | 
始めて訪れる中近東地域。
ドバイで購入した中近東地図 にはパレスチナと言う国名はあってもイスラエルと言う国名は無かった。
ドバイの第一印象は非常にクリーンなこと。
中部アフリカ、西アジアと比べても各々は全く違う文化体系の上に成り立っており、全てを好奇の目で見てしまう。
街角にはゴミも無く、落書きひとつ無い。
乱立するビルディングは何れも目新しく文化の重みを感じることが出来ない。


昼食を摂ったカバブ料理のローカルレストランには14時に入ったが、その後続々人々が訪れていた。15時には長蛇の列。
我々の常識からすれば、遅い昼食そして遅い夕食となるのだろうが、これも当地の文化。
アジア方面からの出稼ぎ者が多いのか、人種は多種多様。
聞けば自動車修理などの機械修理を行う出稼ぎインド人が1ヶ月で稼ぐ給料は5万円ほどとの事。
本国に比べれば大幅に稼げる為、出稼ぎは後を絶たない。
しかし、現地在住者に聞けば、ガソリンの値段も、この頃¥30/Lから¥40/Lに値上げされ、物流コストを押し上げている事から、じわりじわりと物価上昇をきたしているとの事。
現実的には家賃も値上がり傾向にあり、出稼ぎ労働者の生活を逼迫しているらしい。

オイルマネーで潤う国ではあるが、労働者は外国人、行政のブレーンも海外コンサルタントとして一国が成り立っており、文化としての宗教色や服装による文化の差異は感じることが出来ても、表立ってこの国の人々の姿は見えてこなかった。


2006年5月 西アジア:スリランカにて

2009-04-06 06:11:56 | 
スリランカは何度か訪れた場所だが、常に新しい感動を与えてくれる。

スリランカの首都コロンボ。久しぶりに訪れたかの地の街角には多くの歩哨が立ち、ゴミも少なく一抹の不安のある美しい街並となっていた。
これもタミルタイガーとの内戦が頻発している事の余波である事は紛れも無い事実。

コロンボから南に下り、Bentotaを目指した。
途中の街並にはいつものことながら日本の中古車がひしめいており、車だけ見ていると日本かと錯覚してしまう。なんと中古車屋には黒塗りの街頭宣伝車も売られていた。
道路工事車両も中古の日本車で工事看板も日本語。日本語の意味は解らなくてもやっている工事は皆が理解する不思議な世界。


Bentotaの海に近い入り江には写真のオオトカゲも生息している。

また、海沿いのリゾートや夕日に映える浜辺も本当に美しかった。


しかし、海岸線には津波被害の爪あとを残した建物が、まだまだ見受られるのも事実だ。
多くの人々の命を奪った津波被害。漁民相手に船外機を売る現地の方々と話をした際、彼らは自分達は決して拝金主義者では無いと言い切っていた。

以前、出張の帰路、ポケットの1ドル札を見て畏怖の念を抱いた異文化を結び付ける貨幣。
表面的に見れば世界共通の価値観を得る為の貨幣経済は、単純に拝金主義の価値観に結び付く輩の流出も否めないのも事実であり、それが、ソロモンでの中国人に対する暴動にも結び付いている。
しかし、津波の援助活動では利益度外視で漁民の救済に乗り出した彼らのプリンシプルは確かに「愛」だったと思う。


2005年11月 西アジア:モルディブにて

2009-04-06 06:01:39 | 
インドからの帰路、モルディブに立ち寄った。


インドの喧騒を離れると別世界である事を感じざるを得ない。
青い海の中、久しぶりにJETに乗った。

現地の人間に乗り方を教えたりして楽しい時を過した。

首都のマレにある博物館に、日本の小判を発見。

展示案内には、出所不明の記述があるが、写真からは間違いなく日本の小判だと思う。
大昔、こんなところまで誰がこれを持ち込んだのだろう…
歴史のロマンを感じる。

2005年11月 西アジア:インド バックウオーターにて

2009-04-06 05:51:46 | 
2006年11月に訪れた、美しいインドの一コマについて書き記したい。

インドと言うと、不衛生というイメージを抱く事も多いかもしれない。
確かに町のいたるところにゴミはあるし、川の流れの中で全てを洗い流してしまうところでもある。
また、カースト制は禁止されていると言っても潜在的に強く残っている部分もある。
まさに全てが混沌としているのがインドである。

しかし今回紹介するKERALA州にあるALLEPPEYを中心としたバックウオーター(海岸線と平行して内陸部にある淡水の運河地帯)は、ある意味インドの桃源郷とも言える素晴らしい景観で訪れる者を魅了してくれた。
(写真は景観をあえて転地逆にしてみた。完全なフラットウォーターだ)

運河の所々で目にするのが、写真のチャイニーズフィッシングと呼ばれる大きな金魚すくいの様な網を上げて魚を捕らえるネット。古くは中国人が伝えたらしいが中々ゆったりとした時間を感じさせる。

運河が海に交わる地域であるコチンでは写真のような漁船が海からの漁を終え帰ってくる姿が見られる。
18人の漁師が乗る船の船側には、ちっぽけな日本製船外機が2機…これが彼らの家族全員を食べさせていると思うと、人々の生活を支える技術の尊さを改めて感じた。


このバックウォーターにはハウスボートと呼ばれる、トラディショナルスタイルの木製の貸切滞在型観光船が浮かんでいる。

この船は、古くからこの運河で使われていた運搬船の船体を再利用し、そこに1~2のベットルームを有する構造物を乗せたものが代表的である。
それが、波も立てないほどの極低速でゆっくりと水面を移動している。


この地の運河は、植民地時代に英国が作ったものの名残だが、写真のように周囲の田よりも高いところを流れており、不思議な景観をかもし出している。



このハウスボートが流行り出したのは、ここ3年程。
現在は近代的な観光船を駆逐する勢いで、トラディショナルが近代を凌駕している様は、非常に興味深いものがある。

しかし、この地も動力船から出る廃油や排ガス、そして観光地化に伴うゴミの増大による環境汚染問題を抱えている。
自己主張の強い地域性に加え、明確なイニシアチブを示せない協会。個人意識の向上と言う時間延ばしの逃げ口上ではなく、大局的に見る政治ビジョンが無い限り、この桃源郷も無に帰してしまうような気がしてならなかった。

教育、そして政治。人々が抱える問題は世界のどこにも凝縮していると思う。

道中、運河沿いのローカルレストランに立ち寄った、厨房を覗くと写真のようなカレーの数々。

椰子の実から作られるアラックと呼ばれる酒造りも見せてもらった。甘い匂いに蟻が寄ってきて大変。瓶の底には蟻が積もっていたりしている。

これも楽しからずや。
この景観が損なわれない事を願ってやまない。