現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

児童文学の同人誌における自己目的化

2017-01-04 18:35:17 | 考察
 児童文学の同人誌に発表される作品に時々感じることに自己目的化があります。
 本来児童文学作品は、出版して(紙の本だけでなく電子書籍でもOKです)子どもの読者に読んでもらおうと思って書かれるはずです。 
 ところが、書かれた作品世界が、現在なのか、作者が子どものころなのかがあいまいな作品も、中にはあります。
 こうした作品を同人誌に発表する意義について少し考えてみました。
 まず、作者は、はたして主人公と同年代の現在の子どもに向けて書いているのでしょうか?
 実際には、このようなあいまいな作品を読みたい子どもは、非常に限定されていると思われます。
 出版社もそのことはよく承知しているので、こうした作品をいくら書いても本になることはないでしょう。
 三十年ぐらい前で、作品のできが良ければ可能性はあったと思います。
 でも、今ではもっと同時代性を高めるか、エンターテインメントの要素を盛り込むかしないと、出版は難しいでしょう。
 次に、作者は児童文学ではなく、子どもを主人公にした小説を書きたかったのではないかという疑問があります。
 もし小説を書きたかったのでしたら、大人の読者が耐えうる人物造形なりテーマなりがないと、やはり出版は難しいでしょう。
 最後に、作者が同人誌に掲載されることを目標にしていないかという心配があります。
 同人誌という閉じた世界で、同人に向けて書くことだけを自己目的化するのは、作家としての視野を狭める危険性があります。
 どちらにしても、こうした作品は中途半端で市場性はありませんので、書き手自身が自分ががどの方向に進むかを決めることが大事だと思います。

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恐怖のガッちゃん

2017-01-04 12:58:16 | キンドル本
 小学生の主人公には、幼稚園児の弟がいます。
 弟は、問題児でいたずらばっかりしています。
 夏休みに、主人公はそんな弟を連れて、二人だけで東京のおばあちゃんの家へ行かなければならなくなりました。
 新幹線の中で、そして駅で、主人公は懸命に弟を引き連れます。
 しかし、とうとう弟が行方不明になってしまいます。
 主人公は、しかたなくおばあちゃんとの待ち合わせ場所へ向かいます。
 最後に、主人公を待っていたのは?
 
 定価99円(スマホやタブレット端末やパソコンでも読めます)。

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児童文学における視点について

2017-01-04 12:27:20 | 考察
 児童文学において(一般文学もそうですが)、視点と人称には密接な関係があります。
 人称には、通常一人称と三人称があります(まれに二人称もありますがそれは例外としてここでは触れません)。
 一人称の場合は単純で、視点は常に主人公にあるので、描かれる作品世界は主人公の目を通したものに限定されます。
 三人称の場合には、いろいろなタイプがあります。
 限りなく一人称に近くて、主人公の視点で最初から最後まで描かれる場合もあります。
 また、カメラ・アイのように主人公の周辺に視点があって、主人公も含めてその周辺を眺めながら描かれることもあります。
 さらに、俗に「神の視点」と呼ばれる、完全に自由度を持った視点もあります。
 これは、俯瞰図から主人公へのズームアップまで、融通無碍に視点の位置が変わるものです。
 厄介な視点としては、作者の視点があります。
 これは、作者という特定の人物(大人の事が多い)の視点で描かれる場合です。
 この場合、子どもである主人公の視点と大人である作者の視点が混在して、作品がわかりにくくなる場合もあります。
 以上のように、いろいろな視点がありますが、作者は、作品世界やねらいに応じて、自覚的に使い分けて作品を書くべきでしょう。


絵本の力学
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