現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

かわてせいぞう「流れのある風景」

2017-01-31 13:30:13 | 作品論
 まわりの風景や遠い少年の日々を、素直な言葉で書き綴った少年詩集です。
 2011年の日本児童文学者協会の協会賞の二次選考に残った作品の中に、作者の名前を見つけて興味を持ちました。
 それは、後で述べる事情により、作者がかなりご高齢であることを知っていたからです。
 あとがきによると、作者は1923年生まれということなので、本が出た2010年には87歳ということになります。
 まどみちおといい、やなせたかしといい、少年詩を書く方々はみなさんご長寿なのでしょうか。
 この詩集は前作から19年後の出版で、それぞれの作品がいつごろ書かれたかはわかりませんが、どの作品もまるで少年のようなみずみずしい感性で描かれていて驚かされます。
 実は、作者は大学の児童文学研究会時代の友人の父上なのですが、当時彼女にやなせたかしが出したばかりの「詩とメルヘン」という雑誌(1973年から2003年まで30年間発行された詩やメルヘンやイラストの月刊誌で、ブレイクする前のアンパンマンも連載されていました)に載った作者の詩を見せてもらったことがありました。
 その時、「わたしはおとうさんが大好きなんだあ」と、彼女が言ったことを今でも覚えています。
 大学生の娘に大好きだと言わせる父親とはどんな人だと思いましたが、この作品の「あとがきに代えて」にその理由の一端を発見しました。
「 ああ きれえ!

おまえは
そとに出たいとせがむ
勤めから帰ったばかりの
わたしの手を
ぐいぐいひっぱりながら
覚えているかい
いつか わたしの胸の中で
夕やけ色にそまって
ねむってしまったことを
二歳になったばかりの
おまえが 今日も
わたしの先にたって
あかねにそまった
うら庭にでてきた

ー ああ きれえ!
 きれえだ きれえだ ―
おまえは さけぶ
はるかな空のふかみにむかって
手をふりながら
― ねえ おとうちゃん
  きれえねえ ―
思いあまって呼びかけてくる
覚えたばかりの言葉が
虹になって舞いあがっていく

わたしは
思わず おまえを
たかだかと抱きあげていた」
 少年詩集の商業出版は難しく、ほとんどが自費出版か共同出版(作者も出版に必要な費用の一部を負担する)によるものだということは、作者の前の作品を紹介する記事でも書きました。
 もしかすると、この詩集の出版は、「あとがきに代えて」に出てくる幼女である私の友人も含めた子どもたちからのプレゼントだったのかもしれません。
 2012年の彼女の年賀状には、彼女の初めての孫が生まれたことが書かれていました。
 新しい詩集の出版と、おそらく初めての(彼女は長女なので)ひ孫の誕生。
 この詩人はなんと幸せな晩年をおくっているのだろうと、羨ましくなりました。
 2013年に作者のかわてせいぞう氏、そして、やなせたかし氏もお亡くなりになりました。
 謹んでお二人のご冥福をお祈りいたします。
 2015年に友人と会った時に、このご本をいただきました。
 想像通りに、出版に際して彼女も協力したことでした。
 また、実家には、共同出版のためこの本の在庫がたくさんあったそうです。
 
流れのある風景―かわてせいぞう詩集 (ジュニアポエム双書)
クリエーター情報なし
銀の鈴社


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

津村記久子「エヴリシング・フロウズ」

2017-01-31 13:25:57 | 参考文献
 「ウェストウイング」(その記事を参照してください)という作品で小学校六年生だった少年の三年後を描いた作品です。
 一般書という体裁で出ていますし、文章や描写も現在の中学生には難しいと思いますが、1980年代だったら児童文学として出版されていてもおかしくない作品です。
 作品世界の雰囲気をうまくとらえた内巻敦子のイラスト風の挿絵がかなりふんだんについているので、あるいはヤングアダルト向けに出版されたのかもしれませんが、出版社が文芸春秋ということもあって、流通的には一般書扱いです。
 1980年代には大きなテーマになり得た離婚がここではありふれた事柄(主な登場人物である少年少女七人のうち少なくとも三人は離婚家庭です)になっていて、いじめ(これ自体も日常的な事柄でしょう)がエスカレートした壮絶なリンチや義父による妹への性的虐待などの今日的なテーマがクローズアップされて描かれています。
 それと並行して、中三の彼らの日常的モチーフである、塾、文化祭、高校受験、将来の進路、卒業、別れなども、うまく絡めて描かれています。
 こういった作品は、現在の児童文学でも書かなければならないと思いますが、現状ではほとんど出版されていません、
 同じく一般書で、中脇初枝の「きみはいい子」(その記事を参照してください)のような作品はありますが、あれは大人のしかも上から目線で書かれていて、しかも学校や行政に対する批判精神を著しく欠いた反動的なものです。
 この作品では、あくまでも中学三年生の視点で描かれ、無力な大人や学校や行政に対する暗黙の批判になっています。
 この作品は児童文学としても評価されるべきだと思いますが、閉鎖的な既存の児童文学界からは津村の外の作品と同様に黙殺されることでしょう。
 スマホ、デジカメ、ロードレーサー、コンビニ、イケアなどの現在の中学生を取り巻く風俗はうまく描かれていますが、頻出する美術や音楽や映画や本などの情報は、現在の中学生のものというよりは、作者自身の趣味が色濃く感じられます。
 同じ作者の「ミュージック・ブレス・ユー」ではそのギャップをあまり感じなかった(もっとも、その作品の登場人物は高校三年生でしたが)ので、津村も年を取って、現実の中学生の風俗を描くのは苦しくなっているのかなあと思いました。
 もっとも、これは児童文学作家の共通の悩みで、私自身も三十代になってからはかなり苦しくなりました。

エヴリシング・フロウズ
クリエーター情報なし
文藝春秋
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ビリッケツになんか、なりたくない!

2017-01-31 13:22:45 | キンドル本
 今年も運動会がやってきます。
 主人公は、かけっこが苦手なので憂鬱です。
 いつもビリッケツの方なのです。
 でも、主人公よりもっと苦手な子がいます。
 その子は、ビリッケツになるのが嫌で、運動会をさぼろうとしています。
 そうすると、同じ組で走る主人公が、代わりにその組のビリッケツになってしまうかもしれません。
 主人公とかけっこが苦手な友だちは、やはり足の遅い友だちに頼んで、中学校の陸上部に通うその子のおねえさんに、かけっこの特訓を受けます。
 なんとかビリッケツにならないように、三人は懸命に練習しました。
 いよいよ運動会の日がやってきました。
 はたして、かけっこでビリッケツになるのは誰でしょうか?

(下のバナーをクリックすると、2月4日まで無料で、スマホやタブレット端末やパソコンやキンドルで読めます。Kindle Unlimitedでは、いつでも無料で読めます)。

ビリッケツになんか、なりたくない!
クリエーター情報なし
平野 厚


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする