1933年5月10日に、ケストナーの著書は、他の反ナチスとされた作家たちの本とともに、ドイツ各地で焚書(広場に本を積み上げて、観衆の前で燃やす儀式)にされました。
ケストナーは、自分の本が焼かれる現場のひとつであるベルリンのオペラ広場で立ち会った唯一の著者です。
彼は、その後、ナチスの敗戦までの十二年間、執筆を禁止されたにもかかわらず、亡命することなくドイツに目撃者として留まります。
この文章は、焚書からちょうど25年後の1958年5月10日に行われた、ハンブルグのペン会議におけるあいさつです。
ケストナーは、いろいろな先人の言葉を引用しつつ、この焚書がいかにドイツ精神を破壊したかを述べています。
しかし、少なくとも児童文学作家(皮肉にも焚書の理由は、児童文学作品ではなく風刺詩や社会批判論文などであったでしょう)としてのケストナーの輝きは、この焚書と執筆禁止によって失わされてしまいました(児童文学の代表作は、すべて焚書以前に発表されたものです)。
戦争のむごさは、こんなところにも爪痕を残しています。
ケストナーは、自分の本が焼かれる現場のひとつであるベルリンのオペラ広場で立ち会った唯一の著者です。
彼は、その後、ナチスの敗戦までの十二年間、執筆を禁止されたにもかかわらず、亡命することなくドイツに目撃者として留まります。
この文章は、焚書からちょうど25年後の1958年5月10日に行われた、ハンブルグのペン会議におけるあいさつです。
ケストナーは、いろいろな先人の言葉を引用しつつ、この焚書がいかにドイツ精神を破壊したかを述べています。
しかし、少なくとも児童文学作家(皮肉にも焚書の理由は、児童文学作品ではなく風刺詩や社会批判論文などであったでしょう)としてのケストナーの輝きは、この焚書と執筆禁止によって失わされてしまいました(児童文学の代表作は、すべて焚書以前に発表されたものです)。
戦争のむごさは、こんなところにも爪痕を残しています。
子どもと子どもの本のために (同時代ライブラリー (305)) | |
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