現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

大竹 勝「サリンジャーにおける生と死」サリンジャー選集 別巻1

2019-08-14 17:49:55 | 参考文献
 サリンジャーに関する内外の先行研究や、サリンジャーが作品を発表し続けた「ニューヨーカー」誌(全13作品で、長編「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)を除く1946年以降の全作品)について要領よく紹介されているので、非常に参考になります。
 ただ、やや書誌学的で、肝心の著者自身の新しい意見はそれほど書かれていません。
 表題の「生と死」に関する著者の意見を要約すると、以下のようになります。
 「生」については、主として「キャッチャー・イン・ザ・ライ」における性的衝動とその抑制について述べられ、クライマックスの妹のフィービーとの会話のシーンですらそれで説明できるとしています。
 まあ、精神分析的に考えればそうとらえられなくもないですが、かなり恣意的な感じはしました。
 また、これは当時の文学研究者に共通しているのですが、アメリカの風俗、特に若者文化やスポーツに対する関心の低さと知識不足が随所に感じられ、それによって作品を誤読していることに気づかされます。
 ここでは、特にスポーツに関する誤読例を述べておきます。
 野崎孝訳の「ライ麦畑でつかまえて」と同様に、アメリカン・フットボールに対して、「蹴球」という言葉を使っていますが、さらに、同じ「蹴球」という用語をイギリスの「フットボール」に対しても使っていて、明らかに混同しています。
 アメリカでは、「フットボール」という用語はアメリカン・フットボールを意味して、イギリス発祥のフットボールには、日本と同様に「サッカー」という用語を使います。 
 また、アメリカの高校や大学におけるアメリカン・フットボールの対校戦の熱狂は、日本における野球などの対校戦の非ではなく、しいていえば、かつての野球の早慶戦(戦前がピークですが、私が付属高校や大学へ通っていたころはまだ名残がありました)やラグビーの早明戦(私が通っていたころがピークでしょう)のような感じに近いと思われます(私自身の実体験は、アメリカに住んでいた時に、地元のスタンフォード大学の対校戦(特にUCLA戦が一番盛り上がります)を数回見に行っただけですが)。
 この感覚が分からないと、ホールデンが対抗戦の日に退学になって母校を去る気持ちや、フラニーの気持ちを理解しないでイェール大学との対校戦に間に合わなくなることばかり気にして上の空のプリンストン大学生の恋人の心境が、本当の意味では理解できないでしょう。
 また、「シーモァ ― 序論」に出てくる弓道について、著者は「ねらってねらわない日本の弓道の禅の精神を学ぶ」「フォームにこだわらない」などと、書いています。
 私は弓道の経験者で、高校時代は一年のち正月を除く360日ぐらい練習し、全国レベルの試合にも出場していましたが、ここで著者が書いていることは全くの間違いです。
 弓道では、「ねらってねらわない」のではなく、「まったくねらわない」のです。
 また、「フォームにこだわらない」のではなく、「フォームがすべて」なのです。
 他の高校はどうか知りませんが、私の高校では、的前に立つまでに、数か月の間、ひたすらフォームだけを習いました。
 的前に立ってからも、狙いが正しい(矢の方向が正しく的に向かっているかは、構造上自分では確認できません)かは、真後ろに他の人に立ってもらって、確認してもらうのです。
 後は、何千回、何万回も繰り返し練習を積み重ねて、「正しいフォームで弓を引けば」、「ねらわなくても矢は必ず的に当たる」ようにするのです。
 もちろん、弓道は非常に精神的な競技で、特に試合で普段の実力を発揮するためには、他のスポーツよりも強い精神力が求められます。
 しかし、自分のフォームの対する絶対の自信にこそ、「弓道の精神性」はあるのです。
 これは、シーモァがバディにビー玉を当てるための教えを語るシーンに出てくるのですが、この描写から察するところでは、サリンジャーは極めて正しく「弓道の精神性」を理解しています。
 「死」に関して言えば、シーモァの死を、仏教でいうところの「入定」(永遠の瞑想に入ること)やキリスト教の「聖なる自殺」ととらえていますが、納得できません。
 シーモァの自殺は、普通の人間の死ととらえるのではなく、シーモァ(精神)とバディ=サリンジャー(肉体)の一体化ととらえる方が自然ではないでしょうか。
 そういった意味では、1948年(当時バディ=サリンジャーは29歳)の「バナナ魚にもってこいの日」(シーモァの自殺)において分裂した精神と肉体が、1965年(バディ=サリンジャーは46歳)の「ハプワース16,一九二四」になって、ようやく再び一体化して、これ以上作品(特にグラス家サーガ)を書く必要がなくなったと考えれば、その後のサリンジャーの生活は、「書けなくなった作家」、「隠遁者」、「人間嫌い」などではなく、穏やかに暮らす日々だったのではないでしょうか。








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大塚アヤ子「サリンジャーの女性たち」サリンジャー文学の世界所収

2019-08-14 11:43:38 | 参考文献
 サリンジャーの作品(それぞれの記事を参照してください)に登場する以下の女性たちについて論考しています。

 エドナ「若者たち」(サリー・ヘイズ「キャッチャー・イン・ザ・ライ」にもふれています)
 ヘリン「エディに会いに行けよ」
 ロウイス「ロウイス・タギトの長いお目見え」(ルーシー「当事者双方」にもふれています)
 セラ「ヴァリオーニ兄弟」
 バーバラ「ウェストのぜんぜんない一九四一年の若い女(イレイヌ「イレイヌ」にもふれています)
 コリンとバニ「倒錯の森」
 ミュリエル「バナナ魚にはもってこいの日」(シャーロット「大工らよ、屋根の梁を高く上げよ」とハッピー夫人「ハプワース16,一九二四」にもふれています)
 エロイーズ「コネチカットのグラグラカカ父さん」
 ジニ「エスキモーとの戦争の直前に」
 ブー=ブー「下のヨットのところで」
 エズメ「エズメのために ― 愛と背徳とをこめて」
 ジョウニ「美しき口に、緑なりわが目は」(メアリー・ハドソン「笑い男」にもふれています)
 フラニー「フラニー」「ズーイ」

 著者が冒頭で述べているように、「学問的な意味でなんらかのタイプに類別してみたり(実際には一部していますが)、文学的な血統証明をすることではな」く、「ささやかな列伝に記録しておきたい」との趣旨で書かれています。
 日本人とアメリカ人(特に1940年代から1950年代にかけて)とのジェンダー観の違いや当時の社会への理解が不足していることと、同性のせいかやや美人たちに辛口なのを除けば、だいたい無難な列伝になっています。
 ただし、対象が若い女性(ジニやエズメのような思春期前期の少女たちも含みます)に限られていて、彼女たちと同様あるいはそれ以上に重要な少女(幼女も含みます)たちについての論考がまったくないのが物足りませんでした。
 おそらく著者にはそうした登場人物がそれほど重要とは思えなかったのかもしれませんが、(私が児童文学者のせいもありますが)、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のフィービー・コールフィールドや「ブルー・メロディ」のペギィ・モァや「倒錯の森」のコリン・ノルトフェンの子ども時代や「バナナ魚にもってこいの日」のシビル・カービンタは、優れた児童文学に出てくる少女たち(例えば、カニグズバーグのクローディア・キンケイドやケストナーのポニー・ヒュートヘンなど)と勝るとも劣らない「その時代の典型的な子どもたち」です。
 誤解を招かないように追加しておくと、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のアリー・コールフィールドや「笑い男」の語り手(わたし)やブルー・メロディ」の「倒錯の森」のレイマンド・フォードの子ども時代も、優れた児童文学に出てくる少年たち「例えば、ケストナーのマルチン・ターラーやマーク・トウエンのトム・ソーヤーなど)と勝るとも劣らない「その時代の典型的な子どもたち」です。



 
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鈴木武樹「J.D.サリンジャー「若者たち」あとがき」

2019-08-14 09:25:26 | 参考文献
 訳者が書いているように、サリンジャー自身が出版した短編集は「九つの物語」(関連する記事を参照してください)以外にはなく、この角川版「若者たち」には、表題作の「若者たち」を初めとして、サリンジャーの初期(21歳(1940年)から28歳(1947年)まで)に書かれて発表された全18作品のうちで、角川版「倒錯の森」(関連する記事を参照してください)に収められている「ヴォリオーニ兄弟」(1943年作)を除いた17作品が収められています。
 角川文庫での出版順では、「倒錯の森」(1970年)の方が、「若者たち」(1971年)よりも先だったために、このような奇妙な構成になったと思われます。
 「倒錯の森」(1947年作)は中編なので、これ一作では一冊の本にするのには分量が足りないので、同じようなテイスト(「ア・ボーイ・ミーツ・ア・ガール」的(正確には、「倒錯の森」は「ア・ガール・ミーツ・ア・ボーイ」的))を持った「ブルー・メロディ」(1948年作)をくっつけ、その「ブルー・メロディ」に、1948年作つながりで「ある少女の思い出」を、ヴォリオーニ兄弟(「ブルー・メロディ」にもちょっと出てきます)つながりで「ヴァリオーニ兄弟」をさらにくっつけて、一冊にまとめたものと思われます。
 そういった意味では、「若者たち」には雑多な作品が含まれていますが、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)の原型が含まれていたり、それも含めてサリンジャー作品の最大の魅力である大人になることに不器用な男の子や女の子たちが多数登場してくるので、個々の作品自体は粗削りながら、サリンジャー・ファンにはたまらない短編集になっています。
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