「フラニー」(その記事を参照してください)について、以下の三つの観点で解説しています。
<女であること>
著者は、フラニーの行動のすべてを、「女性」というひとくくりにして論じています。これは、いくらこの文章が五十年前にかれたものだとしても古すぎるジェンダー観だと思われます(私がこの本を初めて読んだのはこの本が出てから五年後ぐらいでしたが、そのころちょうどフラニーと同年代だったので「すごく古臭いなあ」と感じたことを覚えています)。フラニーを「女」としてではなく、一人の「人間」として論じなければ本質は見えてきません。また、フラニーが一般的な学生ではなく、特殊な環境で育った(長兄のシーモァや次兄のバディに、幼いころから哲学や宗教学や芸術の薫陶を受けています)一種のマイノリティ(シーモァほどの天才ではないにしろ、飛び級で大学へ進学しています)であることに注目しなければならないでしょう。さらに、グラス家の他の兄弟には、ウェイカー(この時点では、すでに戦争直後の日本で事故死していました)やズーイ(テレビの人気俳優)のようなユーモアに富んだ魅力的な兄たちもいたのです。こうした環境に育ったフラニーが周囲の世俗的な人たち(通っている名門女子大の学生や教員たち、それに恋人のレインのようなアイビーリーグのエリート大学生たち)になじめず、不適応障害を起こしたのは無理のないことです。
<男であること>
著者はフラニーの恋人レインに対しても、「男性」というひとくくりにして論じています。五十年前の文章なのでしかたがない面もありますが、「男は働くために社会で競争するのでエゴが必要だが、女は家庭で子どもを生み育てるのでエゴを捨てられる」といった単純なくくりでは、この作品の本質には迫れません。サリンジャーが彼を通して描いたのは、戦後のアメリカ社会の空前の好景気の中では、それに伴う大学の大衆化も伴って、レインのような教養主義の遺物(もしかすると、著者自身もその一人なのかもしれません)のような人間がすでに時代遅れになりつつあることです。つまり、レインたちのような教養主義的なエリート学生は、もうあこがれの対象ではなくなっていて、その後に続く世代は目標を見失いつつある状況でした。その典型が、サリンジャーが「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)で描いた、そうしたエリートコースをドロップアウトしたホールデン・コールフィールドだったのです。
<断絶と救済>
ここで、著者が指摘している「断絶」が男女間だけでなく、その救済としてフラニー(彼女だけでなくシーモァを初めとしたグラス家七人兄妹(具体的に描かれているのは、他にバディとズーイだけ)、そしてサリンジャー自身も)が回帰したのが宗教であるとの指摘は重要です。
<女であること>
著者は、フラニーの行動のすべてを、「女性」というひとくくりにして論じています。これは、いくらこの文章が五十年前にかれたものだとしても古すぎるジェンダー観だと思われます(私がこの本を初めて読んだのはこの本が出てから五年後ぐらいでしたが、そのころちょうどフラニーと同年代だったので「すごく古臭いなあ」と感じたことを覚えています)。フラニーを「女」としてではなく、一人の「人間」として論じなければ本質は見えてきません。また、フラニーが一般的な学生ではなく、特殊な環境で育った(長兄のシーモァや次兄のバディに、幼いころから哲学や宗教学や芸術の薫陶を受けています)一種のマイノリティ(シーモァほどの天才ではないにしろ、飛び級で大学へ進学しています)であることに注目しなければならないでしょう。さらに、グラス家の他の兄弟には、ウェイカー(この時点では、すでに戦争直後の日本で事故死していました)やズーイ(テレビの人気俳優)のようなユーモアに富んだ魅力的な兄たちもいたのです。こうした環境に育ったフラニーが周囲の世俗的な人たち(通っている名門女子大の学生や教員たち、それに恋人のレインのようなアイビーリーグのエリート大学生たち)になじめず、不適応障害を起こしたのは無理のないことです。
<男であること>
著者はフラニーの恋人レインに対しても、「男性」というひとくくりにして論じています。五十年前の文章なのでしかたがない面もありますが、「男は働くために社会で競争するのでエゴが必要だが、女は家庭で子どもを生み育てるのでエゴを捨てられる」といった単純なくくりでは、この作品の本質には迫れません。サリンジャーが彼を通して描いたのは、戦後のアメリカ社会の空前の好景気の中では、それに伴う大学の大衆化も伴って、レインのような教養主義の遺物(もしかすると、著者自身もその一人なのかもしれません)のような人間がすでに時代遅れになりつつあることです。つまり、レインたちのような教養主義的なエリート学生は、もうあこがれの対象ではなくなっていて、その後に続く世代は目標を見失いつつある状況でした。その典型が、サリンジャーが「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)で描いた、そうしたエリートコースをドロップアウトしたホールデン・コールフィールドだったのです。
<断絶と救済>
ここで、著者が指摘している「断絶」が男女間だけでなく、その救済としてフラニー(彼女だけでなくシーモァを初めとしたグラス家七人兄妹(具体的に描かれているのは、他にバディとズーイだけ)、そしてサリンジャー自身も)が回帰したのが宗教であるとの指摘は重要です。