早大童話会のいわゆる「少年文学宣言」(正しくは「少年文学の旗の下に!」(その記事を参照してください))に端を発した1950年代の「童話伝統批判」について述べています。
ここでも、著者自身の意見を述べるというよりは、当時の議論をかなり網羅的に集めて整理しています。
これらの議論のスタートして、「少年文学宣言」だけでなく、石井桃子たちのグループの「子どもと文学」(関連する記事を参照してください)についてもその主張(世界基準として「おもしろく、はっきりわかりやすく」をあげています)を説明していますし、「少年倶楽部の再評価」を主張した佐藤忠男の「少年の理想主義について」(その記事を参照してください)にも簡単ではありますが触れています。
また、「児童文学は、作家の自己表現か、子どものためなのか」という古くて新しいテーマを議論した「国分・高山論争」も紹介しています。
この論文で特に重要なのは、「童話伝統批判」における問題意識を、著者が以下の三つに整理してまとめたことです。
1.「子ども」への関心 ― 児童文学が描き、読者とする「子ども」を、生き生きとしたものとしてつかまえなおす。
2.散文性の獲得 ― 童話の詩的性格を克服する。
3.変革への意志 ― 社会変革につながる児童文学をめざす。
これらのまとめは、特に「少年文学宣言」派の主張をよくとらえていて、その後の「現代児童文学」の主流の作品群を理解するうえで有効です。
ただし、現時点においては、それぞれに若干の注釈が必要であると思われます。
まず、1の「子ども」については、著者の文章は非常に注意深い表現なのですが、「子どもの論理に基づく」とか「子どもの立場に立つ」といった他の現代児童文学研究者の言葉と比べると歯切れの悪さを感じます。
現に、この著者のまとめを、現役の児童文学作家たちに紹介すると、ほとんどの人がうまく理解できません。
なぜ、著者がこのような表現をしているかというと、80年代に入って、アリエスの「子どもの誕生」に触発された柄谷行人の「児童の発見」(その記事を参照してください)において、「子ども」ないし「児童」という概念は近代(西洋ではフランス革命後、日本では明治維新以降)において発見されたものにすぎないと、あたかも「子ども」というのは概念ではなくそこに現実として存在するものとしていたそれまでの「現代児童文学」論者たちが批判を受けたからです。
そうした経過を経て著者の文章は書かれているので、そのあたりの批判を避けるためにややまわりくどく書かれているのだと思われます。
しかし、「童話伝統批判」は1950年代というある特定の時代の議論なので、「子ども」についてその時代の感覚でもっと明確に言い切ってもよかったのではないでしょうか。
私自身は、「童話伝統批判」における「子ども」に関する一番重要なポイントは、児童文学を中産階級以上の特定の子どもたちから一般大衆の子どもたちに奪還したことにあると考えています(戦前も、プロレタリア児童文学という例外はありましたが)。
また、研究者ではなく児童文学の書き手の立場でいえば、作品世界および想定読者としての「子ども」は、不特定多数の子ども一般であることは少なく(エンターテインメントのプロの作家はこの限りではありません)、特定少数の「子ども」(自分の子ども時代やその周辺の子どもたち、自分自身の子どもたちやその周辺の子どもたち、学校(教師の場合)や塾(講師の場合)やスポーツチーム(指導者の場合)などで知り合った子どもたちであることが多いと思われます。
それを、現代児童文学論者たちは、「現実の子ども」とか「生きている子ども」という概念的な表現を使っていたために、柄谷行人の批判にうまく反論できなかったのではないでしょうか。
2の散文性の獲得は、1959年以降にそれまでにはなかった構造を持つ「現代児童文学」の長編群を生み出しました。
しかし、ある児童文学作品が、詩的性格を持つのか、散文的性格を持つのかは、主として作家の資質によるものが大きいと思われます。
運動体としての「現代児童文学」が散文性の獲得を目指したことは否定しませんが、現在においても詩的性格を持った優れた作品群も並行して誕生しています。
ただし、、詩的性格よりも、散文的性格の作品の方が、児童文学を書く上で間口が広いように感じる作家ないしはその志望者が多いということも事実です。
自分が宮沢賢治のような詩的性格を持つ作品が書けないだろうということは、創作を始めてすぐに認識させられてしまうのですが、散文的性格を持ったエーリヒ・ケストナー(著者はこの論文で「日本の現代児童文学がめざすべき、ひとつのモデルにもなっていたのである」と書いていますし、私自身も実際に創作を始める前から目指すべきはケストナーと思っていました)の作品(「エーミールと探偵たち」や「飛ぶ教室」など)ならば、もしかすると懸命に努力すればいつかは書けるのではないかと思ってしまうものなのです(もちろん、これがたんなる錯覚にすぎないと、後で思い知らされます。それは、ケストナーもまた本質は詩人であり、優れた散文性を持った作品の裏には、彼の詩人としての資質が隠されているからです。)。
ケストナーを例にあげましたが、日本の児童文学作家たちが散文性を獲得した重要な理由には、外国の児童文学の影響があげられると思われます。
有名な例をいくつか示すと、いぬいとみこの「木かげの家の小人たち」はノートンの借りぐらしシリーズ(床下の小人たち」など)、斎藤敦夫の「冒険者たち」はトールキンの「ホビットの冒険」の、後藤竜二の「天使で大地はいっぱいだ」の文体にはサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)の語り口の、影響をそれぞれ見ることができます。
そういった意味では、1950年から始まった岩波少年文庫(石井桃子やいぬいとみこが、編集や翻訳に関わっていました)の貢献は大きかったと思います。
一部の作家(古田足日、いぬいとみこ、山中恒など)を除いては、「童話伝統批判」には直接的には関わっていませんが、多くの作家たちが外国の優れた散文性を持った作品群に触れていたと推測されます。
3の変革への意志は、社会変革を狭義に限定するならば直接的には社会主義的リアリズムの作品群にしかあてはまりませんが、自己変革およびそれを介しての広義での社会変革ととらえるならば、いわゆる「成長物語」も含めてかなりの「現代児童文学」の共通の特質として考えることができるでしょう。
こうした「変革への意志」を「現代児童文学」の作品群が持ったのは、「童話伝統批判」もそのきっかけにはなったでしょうが、より大きな要因は社会的な背景にあったと、私は考えています。
まず、1955年に保守と革新のいわゆる55年体制が確立されて、当時は社会変革を目指す機運が一般大衆にまで浸透しつつありました。
また、その後に高度成長時代を迎えていわゆる近代的不幸(戦争、飢餓、貧困など)は克服されつつありましたが、同時に公害や格差などの社会矛盾やいわゆる現代的不幸(アイデンティティの喪失、生きているリアリティの希薄さなど)も生まれつつありました。
こうした社会的背景は、1991年のバブル崩壊と55年体制の崩壊により終焉を迎えます。
それにより、「現代児童文学」も終焉した(私は90年代と考えています。その記事を参照してください)ことは、当然の結果だったと思われます。
現在の児童文学(ポスト現代児童文学といっていいと思います)においては、著者がまとめたこれらの「現代児童文学」の問題意識も、すっかり変容して薄れてしまっているように思われます。
その一方で、「子どもと文学」派の主張であった「おもしろく、はっきりわかりやすく」は、商業主義的に拡大解釈されて、当初から危惧されていた安易なステレオタイプの氾濫を生み出してしまいました。