現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

夏目漱石「吾輩は猫である」

2020-06-20 10:43:47 | ツイッター
 言わずと知れた明治の文豪による古典です。
 読み直してみると、改めて漱石の教養、知識の深さと広さに驚嘆させられます。
 文学はもとより、芸術や科学や外国の事物に対しても、当時としては先進の知見を有していたようです。
 それを、漱石の分身であろう苦沙弥先生を始めとして、迷亭、寒月、東風、独仙などの個性的な登場人物の口を借りて自在に操り、当時の社会、特に拝金主義や個人主義に対して、鋭い批判を浴びせています。
 その一方で、主人公の猫の目を通して、彼ら文化人たちに対しても、痛烈な批判を展開しています。
 時代的な制約があって、軍国主義やジェンダー観にはさすがに古さも感じられますが、拝金主義の増大、個人主義の増大、教育の陳腐化、芸術の衰退、離婚の増大、非婚化、などに関する先見性には、今でも十分に納得させられます。
 処女作とあって、現代人にとっては文体がややかたく感じられますが、やがては「こころ」や「坊っちゃん」のような、より平明な文体を獲得していくわけです。
 こうした古典的な作品を読むと、「文学」というジャンルが、少なくとも日本では、明治から大正時代にかけてピークを迎えていたことがよく分かります。


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色川武大「連笑」百所収

2020-06-20 10:10:43 | 参考文献
 6歳年下の弟が交通事故で大怪我したのをきっかけに、兄弟が久々に共同生活を送ります。
 作者が33歳でまだ無頼生活を送っていた時代のことで、岐阜で一人住まいをしている弟の面倒を見るには、家族の中で一番身軽な作者が適任でした。
 当時の二人の生活の中に、いろいろな時代の二人の関係が挿入されて、二人の特殊な関係が描かれています。
 中でも驚かされるのが、作者が中学生、弟が小学生になったころの思い出です。
 小中学生のころの作者が、学校をサボって都内のあちこちの盛り場、特に浅草に入り浸っていたことは他の記事にも書きましたが、弟が小学生になってからは土日は弟も一緒に連れて行ったのです(作者のように普通の人間の道を踏み外させることを恐れて、平日は連れていきませんでした)。
 猥雑な盛り場芸術に対する、作者の異常なまでの早熟な通人ぶりはすでに他の記事で書きましたが、その影響で弟はさらに早熟な通人としての相棒だったのです。
 こうした二人が二十年近くの時を経て、お互いの境遇を超越して共同生活する話は、男の兄弟を持たない私にとっては、羨望以外の何者でもありません。
 かなり個性的な姉たちに虐げられていた子供時代、何度、兄や弟の存在を夢想したことでしょうか。
 その願いは、子どもや孫の男の子たちによって、時代を経て間接的に叶えられたのですが、こうした男兄弟の関係性を描いた作品(例えば、ヴェルヌ「十五少年漂流記」、柏原兵三「兎の結末」、庄野潤三「明夫と良二」、ピアス[トムは真夜中の庭で」など)を読むことも、その代償行為だったのかも知れません。
 また、この作品では、それと同時に、父と作者、父と弟、母と作者、母と弟、父と母の関係を描くことによって、ひとつの家族の姿も浮き彫りにしてくれます。


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色川武大「砂漠に陽は落ちて」怪しい来客簿所収

2020-06-20 09:29:55 | 参考文献
 流行歌手のハシリの一人で、戦前の一時期はエノケンよりも人気があった歌手兼コメディアン(というよりはヴォードビリアン)の二村定一について書いています。
 器用でなんでもこなす独特の感性の持ち主だったのですが、持続力に決定的に欠け、スターの座からどんどん転げ落ちて、戦後すぐに深酒のために血を吐いて死んでしまいます。
 こうした浮き沈みの激しさは、かつての芸人の典型的な一例かもしれません。
 現在でも芸人の世界は経済的に厳しいですし、本来のネタの素晴らしさよりもフリートークが重視されて、うまく立ち回ってひな壇芸人になり、やがてはMCになるのが出世コースのような現状では、本当の意味での芸で食べていくのは、かえって今の方が難しいのかもしれません。
 この文章に限らず、読んでいていつも驚かされるのが、著者がこうした戦前の芸人たちと実際に交流があったことです。
 なぜなら、その時の著者は、小学生かせいぜい旧制中学生だったからです。
 学校をさぼって東京のあちこちの盛り場をうろついていた著者には、はるかにスケールは小さいですが同じような性癖(電車通学をしていた小学校、中学校、高校をさぼって、そのころはあちこちのちょっとした駅には必ずあった小さな映画館に入り浸っていました)があったので、考え方やモノの見方に共感できる点がたくさんあります。
 そして、そのころの著者の経験は、阿佐田哲也名義の「麻雀放浪記」などの作品に生かされています。

怪しい来客簿 (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋
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