2012年度の日本児童文学者協会賞を受賞した作品です。
作者は、1984年に「かむさはむにだ」で新人賞を受賞しています。
両方を受賞している作家はたくさんいるのですが、28年もの間をあけて受賞したのは作者が初めての事でしょう。
作者の息の長い児童文学の活動(創作だけでなく、研究や絵本などの読書活動の実践など)に敬意を表したいと思います。
この作品は、絵本の読み聞かせなどの実践を通して知り合った児童養護施設の子どもたちや職員の姿を、中一の少女の目を通して描いています。
特にこの作品が成功したのは、就学前にこの施設に連れてこられた記憶の仕方に特殊性を持つ幼女が、小学校一年になり施設の内外でいろいろな体験をする中で、少しずつ成長して心を開いていく様子を、同室の主人公の視点で過剰な情緒を廃した描き方で描いている点だと思われます。
登場している施設の子どもたちは天使ではありませんし、施設の職員たちも誠実に子どもたちに接していますが限界はあります。
また、外部(特に通っている学校の先生たちや子どもたち)との間に軋轢もあります。
育児放棄や家庭崩壊や親の死や病気など、様々な事情で施設に暮らす子どもたちの姿を、過度に子どもたちに肩入れせずに、淡々と描いている点が優れていると思われます。
その分、テレビなどで描かれるこういった施設の話に比べてドラマチックさには欠けていて、子どもの読者には読まれにくい点はあるかもしれません。
ただ、この本は青少年読書感想文コンクールの課題図書に選ばれたので、中高校生の読者の手に取られる機会は多かったかもしれません。
家庭崩壊や格差社会のひずみなどの犠牲になっている子どもたちといった極めて今日的なテーマを取り上げた点は大いに評価できるのですが、作品の書き方がかなり古くてターゲットの読者である中高校生には受け入れにくかったと思います。
その点は作者自身もあとがきで、あまりおもしろくなかったのではないかと気にしています。
誤解を恐れずに言えば、この作品は作者がデビューした八十年代の「現代児童文学」の手法のままで書かれてしまった気がします。
「現代児童文学」の特徴(特に「少年文学宣言」(その記事を参照してください)派において)としては、「散文性を獲得して(長編志向)」、「現実に生きる子どもたちを捉えて」、「変革の意志(社会の変革、個人の成長)」を持った作品ということになります。
この作品は、見事にこれらの特徴を備えていますが、すでに読者である子どもたちはこういった作品世界を読書という行為に求めなくなっています。
「現代児童文学」のもう一つの特徴(特に「子どもと文学」(その記事を参照してください)派において)である「おもしろく、はっきりわかりやすく」は、かなり誇張された形で、現在の児童文学界を席巻しています。
こういった「良質だけどおもしろさに欠けた」作品を、中高校生が積極的に手にすることはあまりないでしょう。
また、作品の舞台や人間関係がほぼ養護施設に限定されていることも、読者が作品世界に入るためにはマイナスになっているかもしれません。
例えば、この施設の子どもたちは、たとえ中学生でも携帯は与えられていません。
それは事実なのでしょうが、ほとんど全員が携帯(すでにスマホが大半を占めています)を持っている現代の中高校生の読者たちには、携帯なしの世界が想像しにくい(あるいは古く感じられる)のではないでしょうか。
施設の中学生の女の子が夜帰ってこなくて、大勢で探しに行くシーンがありますが、常に携帯と一緒の現代の中高校生にとっては、この大騒ぎはピンとこないでしょう。
作品世界を養護施設の世界だけに限定せずに、もっと一般の子どもたちとの関わりを描くべきだったと思います(その場合の舞台はおそらく学校になると思われます)。
養護施設の中の様子を自然主義的に「写生」するだけでは、ポストモダンの時代を生きる(施設の内外の)現代の子どもたちの実相を捉えるのは不可能です。
いくら克明に施設の子どもたちを描いても、「ああ、私はこういう家庭に生まれなくてよかった」と読者が思うだけに終わる恐れがあります。
こういった施設の子どもたちに、読者が共感を持って読み終えられる工夫がもっと必要だと思います。
また、登場人物が多すぎて、それを名前だけで区別させる書き方も、もっとキャラのたった現代のキャラクター小説(一面的な特徴を強調した平面的なキャラクターを使った、書き手と読者の約束事の上に成り立った小説)を読みなれた現代の中高校生の読者たちは、登場人物の区別がつかずに混乱して読みにくかったかもしれません。
また、主人公の中一の少女のつっぱったキャラクターもやや古く、八十年代や九十年代に長崎夏海などが描いた主人公たちを想起させました(挿絵が佐藤真紀子だったせいもありますが)。
これは、作者の作品の特徴でもあるのですが、彼女の「たまごやきとウインナと」(その記事を参照してください)や映画の「だれも知らない」(その記事を参照してください)のような淡々と事実を描いていくホームビデオ的視線も感じられます。
また、過剰な修飾を省いた文体は事実を描写するのには適しているのですが、読者の想像力を喚起しない「やせている文章」だと言えなくもないと思われます。
そのため、この作品はあえて物語化を拒否しているような印象を受けるかもしれません。
以上のように、この作品が描いた世界は優れて今日的なのですが、それを作中人物と同世代の読者に受け入れてもらう工夫が足りなかった気がします。
この作品の場合、有力な媒介者である「課題図書」や児童文学者協会賞の選者たち(彼らの多くは「現代児童文学」を支えてきた人々です)が、この本を読者たちに手渡す形になりました。
「読書感想文」などのために、中高校生の読者がいやいやこの本を読むのでなければいいのですが。
ただ、この作品の主要な登場人物はいずれも女の子ですし、女性の作者のきめの細やかな観察が作品に行き届いていますので、一種のL文学(女性の作者による女性を主人公とした女性の読者のための文学)として、より広範な年代(30年前ぐらいに作者の「かむさはむにだ」を読んだ人たちもいるでしょう)の女性たち(それには母親や教師たちも含まれます)に読まれて、そこを経由してもっと積極的な形で(媒介者たちと世代を超えて作品世界を共有する)女子中高校生たちに読まれたら素晴らしいかもしれません。