冒頭で、「現代児童文学」の始まりのひとつと言われる1953年の「少年文学宣言」をふり返って、当事者の一人であった古田は、「変革」という言葉に社会主義リアリズムの影響を認め、児童文学全体の変革という広い意味と、個の変革と社会の変革につながる児童文学という狭い意味(社会主義リアリズムの児童文学)の両方があったと述べています。
当時と1980年代とでは、子どもの成長発達観に大きな違い認められると指摘しています。
かつては「大人」は「子ども」の確固たる到達点であったのだが、1980年代にはそれが世界的に揺らいでいるとしています。
それに至る過程で、すでに1960年代から1970年代にかけて、理想主義的な児童文学のあり方が揺らぎ始めてきたと指摘しています。
それは、イニシエーション(通過儀礼)およびパラダイスロスト(楽園喪失)を描いた作品(例えば大石真の「教室203号」や那須正幹の「ぼくらは海へ」など)に現れてきているとしています。
しかし、彼ら(特に古田)の議論の根底には、社会主義リアリズムのしっぽみたいなものをまだ引きずっていて、そこへのノスタルジアが感じられます。
「現代児童文学」が否定した安易なメルヘン(特に幼年もの)への先祖帰りや、自分の作品を本にすることだけを目的にしている無思想な書き手の層を、「退廃」と批判していますが、彼ら自身も含めてそれらへの有効な対応策が出せなかったままに現在に至っています。
社会性のある作品を望む一方で、プロットのおもしろさの重要性も強調していますが、それらを兼ね合わせたような作品創出方法については語られていません。
最後に、戦争児童文学について、もう体験を語るだけではだめで、方法意識を明確にした作品が必要だという認識が示されて、対談は終了しました。
偶然ですが、この対談の直後の1984年2月に、日本児童文学者協会の合宿研究会で、幸運にも今は亡き両先生と同室になり、一晩お酒を酌み交わしながら、この対談と同様のお話を生でうかがったのが懐かしく思い出されます。
この対談からすでに四十年近くが経過しますが、今の状況において有効な「現代児童文学の方法」はどのようなものであるか? 両先生ならどのようにお考えになるか? という気持ちは、今でも持っています。
日本児童文学 2013年 06月号 [雑誌] | |
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