一般的に、現代日本児童文学が始まったのは、1959年だと言われています。
なぜなら、この年に、佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」(その記事を参照してください)といぬいとみこの「木かげの家の小人たち」といった、今までの日本にはなかったしっかりとした骨格と散文性を備えた長編のファンタジーが出版されたからです。
しかし、私は現代日本児童文学の始まりを、1953年としたいと考えています。
なぜなら、この年に現代日本児童文学の成立に大きな影響を与えた二つの論文が発表されているからです。
ひとつは、早大童話会の「少年文学19号(1953年9月25日発行)」に発表された「「少年文学」の旗の下へ!」(1953年6月4日付け)です(詳しくはその記事を参照してください)。
これは一般的には「少年文学宣言」として知られている論文で、鳥越信、古田足日、神宮輝夫、山中恒たちによって発表されたものです。
彼らは、その中で、従来の「童話精神」によって立つ「児童文学」(論中の用語を使えば、メルヘン、生活童話、無国籍童話、少年少女読物のすべて)を批判し、近代的「小説精神」を中核とする「少年文学」の道を選ぶこととその最後の勝利を宣言したものでした。
この「少年文学」という用語は、すでに彼らの同人誌である「少年文学(1953年から1974年)」もなく、早稲田大学の「少年文学会(1960年から2006年)」もすでになくなっだ現時点では、ボーイズラブの小説と誤解を受けるかもしれませんが、ほぼ「現代児童文学」と理解して構わないと思います(ここで「少年」とは、「幼年」、「青年」、「壮年」、「老年」と同じようにたんなる年齢区分で、男性に限った用語ではないのですが、確かに当時の児童文学界は男性中心の世界でした。現在の女性作家、女性編集者、女性読者、女性評論家、女性研究者中心の児童文学界とは、隔世の感があります)。
この「少年文学宣言」の理論によった最初の作品は、1960年に出版された山中恒の「赤毛のポチ」ですが、この作品は1954年から早大童話会のOBたちの同人誌「小さな仲間」での連載が始まっています。
1953年のもうひとつの大きな出来事は、カナダのリリアン・H・スミスが「THE UNRELUCTANT YEARS(心のびやかな時代)」を出版したことです。
この本は、石井桃子たちによって、1964年に「児童文学論」という書名で日本語に翻訳されています。
石井たちのグループが1960年に出版した「子どもと文学」(現代児童文学の成立に大きな貢献したと言われています。その記事を参照してください)に大きな影響を与えています。
私事になりますが、私が児童文学を研究しようと思ったのも、「子どもと文学」を1971年8月の高校2年の夏休みに読んだことがきっかけでした。
石井たちのグループが「新しい日本児童文学(現代日本児童文学と読み替えてもよいと思います)」のための討議を始めたのは1955年ですが、彼らの中には、石井桃子(ケネス・グレーアムの「楽しい川辺」、A・A・ミルンの「クマのプーさん」などを翻訳)、瀬田貞二(トールキンの「指輪物語」、「ホビットの冒険」などを翻訳)、渡辺茂男(マージェリー・シャープの「ミス・ビアンカ」シリーズなどを翻訳)といった英語に堪能なメンバーがいたので、討議が始まる前には彼らはすでにリリアン・H・スミスの「THE UNRELUCTANT YEARS」を読んでいたと思われます。
彼らの討議の実作面での最初の大きな成果は、メンバーの一人であるいぬいとみこが1957年3月に出版した「ながいながいペンギンの話」でしょう。
しかし、この作品が同人誌「麦」五号に連載が開始されたのは1954年11月ですから、「子どもと文学」の討議と並行して試行錯誤しながら書きすすめられていたようです。
このように、どちらの場合も、現代児童文学が実作よりも理論が先行していたということは、興味深いものがあります。
ともすれば、評論や児童文学論が作品の後追い的になっている現状を考えると、当時の研究者たちの使命感や先見性に敬意を表したいと思います。
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