サリンジャーは、彼が創造したグラス家の七人兄弟姉妹のそれぞれについて、繰り返し作品に書いていますが、この短編がすべての始まりであり、また終わりでもあります。
この短編の最後で、グラス家の長男であるシーモアは、フロリダのリゾート地のホテルでピストル自殺します。
作中でも、第二次世界大戦後に戦場から帰還したシーモアが、精神的に病んでいたことが明示されていますが、その真相についてはほとんど語られていません。
グラス家の兄弟姉妹を描いた様々な作品は、ある意味、「なぜ、シーモア(15歳で大学に入学し、18歳で博士号を取り、21歳で大学教授になった早熟な天才)は死ななければならなかったか?」といった命題に対して、様々な見解を提示しているともいえます。
それらについては、それぞれの作品についての記事で言及していますが、この作品においては二人の典型的な女性によっては彼の魂は救済されなかったことだけが明らかになっています。
一人はシーモアの妻のミュリエルで、当時の典型的な世俗的な女性で、シーモアの内面など理解しようにもできない存在として描かれています。
もう一人は、浜辺でシーモアと遊ぶ幼女(四歳ぐらいか?)のシビルです。
一般的に、幼い子どもは無垢な魂の象徴として描かれることが多い(サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」に出てくる主人公のホールデンの妹や弟もそれに近いです)のですが、シビルは赤裸々なほど女性性の醜い面(同性への嫉妬、限りない欲望、欲求不満、男性への要求など)の象徴として描かれています。
こうした典型的な人物が、シーモアの死と対比的に描かれなければならなかったのか。
そうした疑問と、自分自身の経験を彼女たちに重ね合わせた時に生じる一種の畏怖を感じざるを得ません。
そういった意味では、同じように戦争体験で精神を病んだ飛行士が、同じく不幸な境遇にいる少女の無垢な魂によって救済された映画「シベールの日曜日」(その記事を参照してください)の方が、ラストで周囲の大人たちの無理解によって悲劇的な結末になったとしても、まだ救いがあります。