1959年に発表された、グラス家サーガの一篇です。
グラス家七人兄妹の中心人物である長兄のシーモァについての人物論を、二歳下のバディ(作家兼大学教師)が描く形をとっています。
しかも、シーモァの外見、考え方、性格、能力、家族内での位置づけなどを、彼の遺稿である184篇の詩を出版するために紹介する名目で書いているという、非常に凝った形式で描かれています。
また、バディ=サリンジャーだということを匂わせる記述(「バナナ魚にもってこいの日」、「テディ」、「大工らよ、屋根の梁を高く上げよ」らしき作品(それらの記事を参照してください)の作者であることと、この時の年齢が同じ40歳であることなど)もあって、シーモァ、バディ、ブー=ブー、ウォルト、ウェイカー、ズーイ、フラニーの七人兄妹だけでなく、サリンジャー自身も登場人物であるような不思議な感覚を味あわせてくれます。
実際に、「バナナ魚にもってこいの日」でシーモァが31歳で自殺した時には、バディとサリンジャーは共に29歳だったわけで、そう考えるとバディが自分を描写している中年太りが始まった姿は、かつて本に載せることを許していた痩身で若々しいサリンジャーの写真からの変化が想像されて微笑ましいとともに、夭折したものだけに許されるいつまでも31歳のままで変わらないシーモァとの対比がより鮮明になります。
筋らしい筋がない書き方は、1957年に発表された「ズーイ」(その記事を参照してください)よりさらに進んでいるため、グラス家サーガの先行作品をすべて読んでいない読者には非常に分かりにくい作品になっています(「ズーイ」は、少なくとも「フラニー」(その記事を参照してください)を読んでいれば理解が可能です)。
その一方で、グラス家サーガのファン、特に、「なぜ、シーモァは自殺しなければならなかったか?」を考え続けている私のような人間にとっては、貴重な手掛かりに富んだ作品になっています。