文芸評論家の筆者が、当時のこの作品の位置づけを解説していて興味深いです。
戦前は、作家も発表雑誌もはっきりと区別されていた純文学(新小説、つまり既成の小説にないものを書く文学)とエンターテインメント(ロマンを志向する大衆小説)が、戦後は次第にあいまいになってきたとしています。
そうした、純文学的資質をもっていながら大衆文学畑の中で仕事をしている当時の作家として、山口瞳(「血族」の記事を参照してください)、田中小実昌、向田邦子、村松友視などともに色川武大をあげています。
彼らの小説の特長としては、「身辺のできごとや何気ない時代の風俗をうつしながら、そこに自己をつよく投影させ、人間心理の微妙なニュアンスを、きめこまかな文体で描き出す」とし、「一方で私小説の発想ともつながるものをはらみながら、瑣末な身辺小説の隘路にはまりこむことなく、不安定で不条理な人間存在の表裏をするどく凝視し、味わいふかい作品に仕上げたものが少なくなかった」と評しています。
そして、この短編集に含まれた作品を、「一風変った男女の風俗小説として読んでもさしつかえないが、色川武大の文学的資質が、そこに顔をのぞかせていることもたしかなのだ」としています。
この作品と同様に、1970年代から1980年代に書かれた「現代児童文学」(定義は他の記事を参照してください)においても、同様の味わいを持った作品が多く出版されました。
それらの代表的な作家としては、森忠明、皿海達哉、梨木果歩、湯本香樹実、江國香織、丘修三、最上一平などがあげられるでしょう。
そして、尾崎流の書き方でいえば、「彼らの作品を、一風変った児童文学として読んでもさしつかえないが、彼らの文学的資質が、そこに顔をのぞかせていることもたしかなのだ」といえます。
そして、エンターテインメント全盛の現在では、すでに終焉した「現代児童文学」と同様に、一般文学でもこのような味わいを持った作品は死滅しようとしています。
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