主人公の15歳の女の子は、同級生でテニス仲間の女の子の家に、最初の一回を除いて半分出そうとしないタクシー代を取り立てに行きます。
家には女中もいて、テニスをしに行くのにコートまでタクシーで行くほど裕福な家の子なのですが、あまりお小遣いをもらっていないらしくて結構せこいのです(ただし、その代りに、毎回罐に入った新品のテニスボールを家から持ってきています)。
友達がおかあさんにお金をもらいに行っている間に、主人公は二人の典型的な若い男性に出合います。
一人はルックスも身なりも悪いし言葉遣いも悪いが率直で飾り気のない友だちの兄で、もう一人は彼の友だちでルックスも身なりもいいが恰好ばかり付けている男です。
主人公は友だちに対して腹を立てていましたが、ラストでは気分を直してボールを持ってきてくれていることを理由に、お金を受け取ることを断ります。
明らかに、主人公には、二人の男たちとの会話を通して、物事の本質を見極める力があることを示しています。
そして、そうした能力が、戦争を引き起こすようなずるい大人たちの本質を見極めることにつながることを示唆しています。
なお、タイトルは、全く意味のないこと(アメリカがエスキモーと戦争する)を示していて、第二次世界大戦へのアメリカの参戦に対する批判(年寄りの権力者たちが自分の利益のために戦争を起こして、罪のない若い人たち(当時は男性)が血を流している)が込められています。
しかし、サリンジャーの願いもむなしく、その後のアメリカは、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争などの多くの戦争の当事者になり、多くの若者たちが犠牲になりました。
第二次世界大戦では、それでも裕福な家の若者も、貧乏な家庭の若者も、表向きは等しく戦争に参加させられていました(当然、当時からズルしている権力者の子弟はいましたが)。
しかし、次第に戦争で犠牲になるのは、貧しい家庭の若者たち(教育を受けられる機会が限られていて、軍隊に入る以外にあまり仕事もない)に限定されるようになってきています(今のアメリカの軍隊は、徴兵制ではなく志願制なので)。
これと同じことが、日本でも近い将来起きないとは言えないのが、悔しくてなりません。