2017年7月29日に、日本児童文学学会7月例会で行われた発表です。
動物ファンタジーの古典である、ケネス・グレアムの「たのしい川べ」について考察しています。
従来、イギリス紳士を模したと思われるアナグマ、ネズミ(正確には川ネズミ)、モグラに対して、地主階級のとんでもない道楽息子として位置づけられていたカエル(正確にはヒキガエル)が、物語ではたしているユニークな役割に着目した興味深い発表でした。
発表者は、その後の代表的なファンタジーである、バリーの「ピーター・パンとウェンディ」(その記事を参照してください)やミルンの「クマのプーさん」「プー横丁にたった家」では、作品世界があまりにアルカディア(理想郷)であったために、最後には主人公であるウェンディやクリストファー・ロビンが、立ち去らなければならないとしています。
それは、これらの作品において、アルカディアが子ども時代の比喩であり、成長する存在である子どもたちは、いつかはそこを去らなければならないのでしょう。
他の記事にも書きましたが、「子ども時代にさよならする」ことは、ファンタジーに限らず児童文学においては重要なモチーフであり、モルナールの「パール街の少年たち」、皿海達哉の「野口くんの勉強部屋」(その記事を参照してください)、那須正幹の「ぼくらの海へ」(その記事を参照してください)などのラストシーンで、鮮やかに描かれています。
発表者は、そのような終わり方を物悲しいと表現していましたが、まさに児童文学あるいは文学の本質は、そこ(子ども時代はいつか終わるものですし、人間自体いつかは死ぬ宿命にあります)にあるのだと思います。
それらと比較して、ヒキガエルのユニークな点は、最後に改心して立派な地主階級の人間になる(子どもから大人になる)ように見せかけて、実は本心は違うのではないかと思われる点(発表者が紹介したように、このことを指摘した先行研究があります)にあるとしています。
そして、ヒキガエルのおかげで作品世界がたんなるアルカディアにならなくてすみ、沈滞した状況からやがてディストピアになる危険性を回避しているとしています。
発表者は、地中(おそらく地方や労働者階級の比喩だと思われます)から川べ(おそらく紳士社会(特に引退後)の比喩だと思われます)に出てきて、友情に熱いネズミや頼りになる先輩のアナグマの助けを得て、立派な紳士になっていくモグラとの対比に注目しています。
発表者は、彼らがどのような収入を得ているかが不明だと話していましたが、紳士たちのハッピーリタイアメント(生涯困らない財産をできるだけ早く築いて一線から退き、あとは好きなことをして暮らすことで、今でも欧米のビジネスマンにはそれを望んでいる人たちが多いですし、かつては日本でも隠居制度(伊能忠敬も隠居後に日本中を測量して地図を作りあげました)がありました)後の生活だと思えば不思議はありません。
児童文学論的な観点で眺めると、モグラは典型的な成長物語の主人公であり、ヒキガエルはアンチ成長物語の主人公ということになります。
そのために、一般的には「たのしい川べ」はオーソドックスな成長物語(いつかはお話が終わる)としても読めるのですが、一方で主人公が成長しない(おかげでお話も終わらない)遍歴物語として読めることになり、「たのしい川べ」が長い間子どもたちに読み継がれている大きな理由のひとつになっているかもしれません(成長物語と遍歴物語の詳しい定義については、児童文学研究者の石井直人の論文を紹介した記事を参照してください)。
それでは、ケネス・グレアムは、なぜこのような作品を書いたのでしょうか?
「たのしい川べ」の訳者の石井桃子のあとがきによると、ケネス・グレアムは弁護士の子どもとして生まれたのですが、父親が酒におぼれたり母親が早くに亡くなったりして、厳しい少年時代をおくったようです。
苦学した後に銀行に就職して、地位や財産を得てから遅くに家庭を持ったので、男の子(アラステア)が生まれたのは彼が42歳の時でした。
そして、そのアラステアに語る(のちに手紙にも書きました)形で、「たのしい川べ」はできあがったのです。
ケネス・グレアムは、バリーやミルンのような職業作家ではありません。
私自身にも経験がありますが、そのような少年時代をおくった父親が自分と比較して幸せそうに見える息子に語る物語には、子どもの今の幸せがいつまでも続くことと将来の成長に対する願いの両方がこめられていたことでしょう。
それは、モグラ(ケネス・グレアム自身でしょう)のように社会に適合していく(大人になる)ことと、その一方でヒキガエルのようにいつまでも楽しい少年時代をおくっている子どものままでいてほしい(大人にならない)という、相矛盾するものが含まれているものなのかもしれません。
たのしい川べ (岩波少年文庫 (099)) | |
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